あるいはイジメ。自分にとっては優しく接する友人だが、ほかのだれかをいじめている人がいたとする。そしてそのいじめを自分が目撃したとしよう。そのとき、「人間には色々な側面があるから、僕には優しくてもだれかには邪悪でも当然だよね」と思って笑顔で今まで通り接する人間と、「僕には優しいのは偽りであって、こいつは邪悪な危険な人間なんだ」と考えていじめを止めようとしたり、あるいは攻撃したり、あるいは距離をおいたりする人間、二つのどちらがまともか?もちろん後者だよな。

あるいはホームレス。ホームレスに気さくに話しかける人は少数派だし、ホームレスを経済的に支援しようと考える人はまあいるだろうが、個人的に友達になろうとする人はよほどの人だろう。ホームレスは貧乏かもしれないが、人間は多様なのだからホームレスと話してみれば、すばらしい人かもしれない。それなのになぜホームレスと深い関係を持つ人が少ないのか?

こういうのを見ればわかるように、社会というのは、他人に対して自分の思う枠の中で動くことを強制することで成り立っている。議員は俺の思うように額面通りのポジションで政治に関与しろ、店員は俺の思うようにちゃんと接客しろ、友人は俺以外の人間にも善人としてふるまえ、ホームレスはなんか汚なそうだからイヤ。そういうふうに他人が画一的にふるまうことを求めずに、人々の社会的な関係がありうるだろうか?ありえないだろう。むしろ逆に多様性を出してくることは悪というまである。

人間の色々な側面を描くまではいいが、それをなぜか当然視したり、多様さを出してくる人間のほうが人として魅力的みたいな感覚を人々が持つことをもし伝えようとしているなら、それはまあ、浅いよね。