お芝居好きな人は舞台の上で動きたいのよ。
小説好きな人は動くより細かい心理描写書きたいわけよ。
声優さんってのはマイクの前で動けないんだよ。
そういう役者の人らと一緒に制作さんはアニメ作ってるから
役者ってのは動かなくても良いっていう根底があると
思うのね。絵が心理描写を小説的に描くために静止して
キャラが行動しないことがある。これは
声優さんらの芝居の姿を見慣れてる制作さんが
手塚先生忘れてる部分ってあると思うのね。
手塚先生の部分ってなにか言ってたら
医学生時代に学生演劇をやってたぐらい芝居好きで
芝居で動くのが好きな人、芝居を動かすのが好きな人って
ことなんだと思うんだよ。自分が芝居したら楽しく
動けるような行動家的な直線を入れてくる。
声優さんらって動けなくても楽しそうだ。そうだ
動かなくても芝居は成立するんだ。そこに対して小説的な部分
の肯定と劇の行動的劇性の否定が生まれてる気がするのね。
違うのね。アニメは行動を画面の向こうのキャラが
かわりにやってくれてるわけで、声優さんとキャラの
芝居はセットで見るもんで、アテレコの静的性と作品の
非行動性を絡めてはいけないと思うのね。
絵は劇として行動的な直線の気持ちよさを描かないとダメと
思うのね。でも小説家気質の人は劇の直線的行動の
気持ち良さより見せたいものがある。
ここが手塚先生の劇好きとの違いで発展したアニメ作品群
としての戯曲ではない小説としての部分があると思うし
その小説の部分ってのがシェイクスピア劇を題材にした時の
シェイクスピアではないなにかになるのかなと思うのね。