実際オグリの馬主も中央出すの消極的だったらしいからな
wiki情報コピペだが

佐橋五十雄への売却と中央競馬への移籍

1988年1月、馬主の小栗はオグリキャップを2000万円で佐橋五十雄に売却し[35]、佐橋は中央競馬への移籍を決定した。

オグリキャップが活躍を続けるなかで同馬を購入したいという申し込みは多数あり、特に中京競馬場[† 17]の芝コースで行われた8戦目の中京盃を優勝[† 18]して以降は申込みが殺到した[37]。
また、小栗に対してオグリキャップの中央移籍を勧める声も出た[36]。
しかしオグリキャップに関する小栗の意向はあくまでも笠松競馬での活躍にあり、また所有する競走馬は決して手放さないという信条を持っていたため[38][† 19]、すべて断っていた。
これに対し最も熱心に小栗と交渉を行ったのが佐橋で、中央競馬の馬主登録をしていなかった小栗に対して「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」と再三にわたって説得したため、小栗は「馬の名誉のためには早めに中央入りさせた方がいい」との判断に至り、「中央の芝が向いていなければ鷲見厩舎に戻す」という条件付きで同意した[40][41][27]。
また、佐橋はオグリキャップが中央競馬のレースで優勝した際にはウイナーズサークルでの記念撮影に招待し、種牡馬となった場合には優先的に種付けする権利を与えることを約束した[† 20][43]。

なお、鷲見は小栗がオグリキャップを売却したことにより自身の悲願であった東海ダービー制覇の可能性が断たれたことに怒り、笠松競馬場での最後のレースとなったゴールドジュニアのレース後、小栗が関係者による記念撮影を提案した際にこれを拒否した[† 21][35]。
オグリキャップの移籍によって笠松競馬の関係者はオグリキャップとの直接の関わりを断たれることになった。
例外的に直接接点を持ち続けたのがオグリキャップの装蹄に携わった装蹄師の三輪勝で、笠松競馬場の開業装蹄師である三輪は本来は中央競馬の施設内での装蹄を行うことはできなかったが、佐橋の強い要望により特例として認められた[33]。