※2025/12/11 05:00
読売新聞

 東京は敗戦まで国内最大の「軍都」だった。飛行場、軍需工場、練兵場……。80年を経て大半が姿を消したが、いまも戦災の記憶をとどめる痕跡がある。生き証人と「無言の証人」を訪ねた。

 コンクリートの壁面には、無数の弾痕が痛々しく残っていた。都立東大和南公園(東大和市)の一角にある旧日立航空機立川工場の「変電所」だ。各工場に電気を供給する施設だった。3回の空襲で100人超が犠牲になり、工場は壊滅的な打撃を受けたが、変電所などのごく一部の建物はかろうじて残った。

 「未成年者は退避しろ」。1945年4月19日、米軍の戦闘機が襲来した時、宮下貞美さん(95)は上司のその声を忘れられない。

 当時15歳。研磨工として工場で勤務していた。仕事中にサイレンが鳴り、すし詰め状態のトラックの荷台に飛び乗った。トラックは400~500メートル走ると突然止まった。はるか前方に米軍の戦闘機が見えた。転げ落ちるように降りて、道路を一目散に走った。見つけた土管に身を隠し、難を逃れた。

 この時の米軍機による機銃掃射で変電所は「蜂の巣」状態になったと考えられている。

■■軍需工場標的に

 軍用機のエンジンを製造する工場が完成したのは38年。宮下さんが就職した44年には1万3000人の従業員がいたが、軍需工場は米軍の標的になった。

 この工場への最初の空襲は、45年2月17日午前。宮下さんは夜勤明けで、敷地内の寮で寝ていた。飛行機の「ブンブン」という 轟音ごうおん で目が覚めた。「空襲に違いない」。跳び起きて、敷地内の防空 壕ごう に避難した。

 この空襲で亡くなった人の多くが、爆弾で防空壕が破壊されて土中に埋まったことによる窒息死だった。「自分が防空壕に生き埋めになったかも」

 4月24日には、100機を超える爆撃機B29が襲来した。工場から数キロ先の村山貯水池(多摩湖)の方へ避難した。「ヒュー、ドン」と音が聞こえた。投下された爆弾は、1800発余り。工場や事務所はがれきの山と化していた。「もう、だめだ」。ぼう然と立ち尽くした。宮下さんは「日本は、なんてばかげた戦争をしたんだ」と憤る。

■■召集逃れた爆撃

 「生きるも死ぬも、紙一重だ」。日立航空機立川工場で働いた西倉勝さん(100)は、生き残った自身を顧みる。

 43年1月に17歳で就職し、人事係として働いた。本土空襲が本格化したのは翌年11月。現在の武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所への爆撃からだった。「次はわれわれの工場に来る」。覚悟を決めていた。

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