元は、中世には浦和も大宮も、東は見沼、西は高沼や古代入間川低地、浦和の南端高台直下も古代入間川が流れていた、水辺に囲まれた土地で高塙郷と呼ばれていた。 
(「塙」とは水辺に囲まれた小高い土地のこと)

平安期の足立郡司武蔵竹芝も、浦和の調宮付近の館に住まい、ここや足立郡衛にて政務を執り行い、
また同時に大宮の氷川神社の祭祀の任も掛け持ちしており、日常から各所を行き来していた。
岸町の高台直下を流れていた古代の水上交通路である古代入間川を舟で上った、
いまの埼玉大学の北方に足立郡衛遺跡があり、浦和大宮与野が足立郡の中枢として一体であったことが解かる。

江戸時代に入り五街道が整備され、浦和宿と大宮宿が設けられてから地域として分裂した。