1960年3月26日
佐賀市の佐賀駅を出発した、僕は26日の夕方、大牟田市諏訪町2丁目の地に立っていた。小学校4年の時だった。
長屋の入口の所で、雨が降り出していた。僕は一匹のメスの子猫、全身が黒ずくめの「ちょん」をジャンパーの胸に入れて、
新しい引っ越し先となる古い二階建て長屋の家を見あげる。雨は、樋の破れた個所から滝となって落ちている。
それが、土の通路に穴をあけて深い水たまりとなって延々と続いている。目指す我が家は一番奥、約50メートル先だ。
おお、これは。この水たまりを飛び越していかなければならないぞ。今度もボロ屋だな。母や妹と共に元気にポンポンと飛び越して進む。
僕はまったく知らなかったが、このとき東京では安保闘争、ここ大牟田市の三井三池鉱山では、三池争議が行われて、いまや決戦の時を迎えていた。
僕は着いたばかりで、猫だけで頭の中が一杯だったが、次の日からはもう、この壮絶な三池争議の、ど真ん中に入り込む事になるのである。

ここは激しい土地だった。ここで、昭和35年、日本最強と言われた、ひとつの師団が壊滅した。その名勇名でなる、大「三池炭抗夫」師団である。
だいみいけたんこうふ師団。
この師団のおじちゃん達は、みんな良い人ばかりだった。僕は思いつく限りのおじちゃん達の、消えていったおじちゃん達、一人一人の
事を今から書き始めたい・・・おじちゃん達は悪くない、決して悪くない。いま69歳になった僕は、この目で直接見た事によって、それを証明していきたい。
福岡県人は、全国民から頼りにされて、4つの最強師団を送り出したが、この4個師団全てが壊滅している。全滅である。我が福岡県人でしか成されない
戦史に残る激しい戦闘をだったが、その痕跡を捜し出すのは困難だ。
1、 ビルマ戦の「菊と龍」兵団
2、 ガダルカナル戦の福岡124連隊
3、 三池争議の第一第二の2個の組合からなる(約15,000人)で編成され、その名、全国に轟く、大「三池炭坑夫」師団
4、 国鉄門司労組(北九州)