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 だからスケート連盟やテレビ局としては、商業的に長く競技生活を続けてほしかったが、羽生選手は4回転半を跳び続けた。あくまで4回転半にこだわる羽生選手と連盟やテレビ局の間には、見えない溝ができていました」(スケート連盟関係者)

 北京五輪での演技後、採点を待つキス&クライで羽生の隣には誰もいなかった。コロナの影響もありコーチのブライアン・オーサー氏が不在とはいえ、スケート連盟の誰かが寄り添うこともなかった。羽生がいかに孤高のスターであるかを象徴する場面だった。

「9才の自分ほめてもらえた」

 たったひとりになっても、選手生命を懸けて4回転半に挑み続けたのはなぜか。羽生は会見で「9才の自分」の存在をこう明かした。

「ぼくの心のなかに9才の自分がいて、あいつが『跳べ』とずっと言っていたんですよ。ずっと『お前へたくそだな』と言われながら練習をしていて。でも今回のアクセルはほめてもらえたんですよね。一緒に跳んだというか、ほとんどの人は気づかないと思うけど、実は同じフォームなんですよ。9才のときと。ちょっと大きくなっただけで。だから一緒に跳んだんです」

 9才のとき、羽生は初めて出場した全日本ノービス(小学3〜4年生のクラス)で優勝した。それ以来、彼はひとりではなかった。だが「リトル羽生」は北京で役割を終えたかもしれない。

「正直に言うと、五輪2連覇を果たしたとき、もうこれで引退だと周囲は思いました。でも彼をさらに4年間支えてきたモチベーションは4回転半でした。会見で『9才の自分』と語ったように、子供の頃からのスケート人生の集大成が4回転半だったんです。彼はそれをとうとう跳んでしまった」(フィギュアスケート関係者)

 2月14日に行われた会見で羽生はこうも語った。

「ずっと壁を上りたいと思っていたんですけど、いろんなかたがたに手を差し伸べてもらって、最後に壁の上で手を伸ばしていたのは9才のおれ自身だったなって。最後にそいつの手を取って一緒に上ったなという感覚があって。そういう意味では、羽生結弦のアクセルとしてはこれだったんだと納得しているんです」