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米軍に収容された県民は、収容所で栄養失調とマラリアでどんどん死んで行った。これを『沖縄戦第二の悲劇』と言う。
米軍はDDTやディート(虫よけ)を保有しておりマラリアに罹る米兵などいなかったのに、沖縄県民を見殺し。
久志村から瀬嵩村(現キャンプシュワブ)の米軍収容所に収容された一般県民の証言記録 【琉球新報1983年9月】

■栄養失調とマラリアが次々と命を奪った 1日で20人も死ぬ (「戦禍を掘る」取材班)1983年9月19日琉球新報
 「一つの屋敷にいっぱい人がいましたよ。5〜6世帯は入っていたんじゃないかな」と、当時、瀬嵩にいた数少ない地元
出身者の男性の一人、西平正蔵さん(62)は言う。6000人余の避難民がいた。掘っ立て小屋が並びはじめ、海岸線近く
まで小屋が建てられた。「あのころは雨、風がしのげればよかったから」と至る所に"トリ小屋"がつくられた。「夜になると
フクギに頭を向け、足は道に出したまま寝ている人がたくさんいて、足がじゃまになり道を歩けないほどだった」。
 食料もありミルクもあるのにどうして600人もの人が死んでいったのだろうか。西平さんは、こう説明してくれた「一つは、
ぜんぜん食料がない7月ごろ亡くなった人が多かったこと。もう一つは食べ物が目の前にあっても病気で体が衰弱して食
べられなかった人も多いと思う。また欲しくても体が受付けなかった人もいる。それほどマラリアと栄養失調が激しかった。
近くに米軍の病院もありました。病院というより病人の収容所といった感じでしたが、重い患者は宜野座に運ばれました」。
 「1日20人ほど死んだって聞きましたよ」と話すのは瀬嵩で商店を経営している池宮秀得さん(82)。池宮さんも当時、
地元にいた一人。「いっぱい人がいたよ。えーとねー、那覇からは1100人、大里から700人、読谷から700人来たって
覚えている。死んだのはみんなで600人というのも聞いた」と語った。

■山に1000人の墓標 大川区 100〜200柱未収骨のまま(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月20日琉球新報
 大浦から横断道路を2-3キロ行くと大川区に着く。山あいに開けた人口100人前後の小さな区だ。当時4000人余が
ここに避難して来た。そして「1000人」ぐらいが死んでいったという。比嘉堅憲区長(64)に協力して貰い、そのころ地元
にいて、その模様に詳しい人を区の公民館に呼んで貰った。集まったのは銘苅清仁さん(72)平良栄徳さん(66)
崎浜秀一さん(55)それに比嘉区長の4人。口火を切ったのは崎浜さんだった。
 「ここで死んだのは1017人と聞いている。そのほとんどが私の土地に埋められたが、辺り一面墓標だった。私の土地
は3千坪ある。それから考えても1000人以上が亡くなったのは本当と思う」。墓標が立っていたというから、恐らく瀬嵩の
ように「墓地台帳」があったに違いないが、現在、紛失してない。その墓標にまつわる話を平良さんが語ってくれた。
 「あれは終戦後2-3年だったと思います。大雨の日、地元のお婆ちゃんが、薪代わりに山から墓標をひっこぬいてきた
んです」。大川区の未収骨数は県の資料によると「百から二百」。身寄のない人が多かったという。未収骨が多く残った
のは、そのためかもしれない。平良さんは「マラリアに罹って死ぬ人も多かった。死ぬと毛布に包んで身内や部落の人が
担いで山に運んだ」と話す。