東日本大震災後に俺が幼なじみと対面するまでの話
スレ立ても初めてだし、書き溜めてるワケでもないので時間が掛かると思う。
文章もヘタだしムダに長くなるかもだけど許してほしい。
寝落ちする前には書き終えたい。 前提として俺の幼なじみの話をする。
俺にはマンガのテンプレみたいな幼なじみがいた。
家が隣で同い年。小さいころから一緒に遊んでたから家族みたいな感じだった。
ひいき目抜きで見てもかなり可愛い子で、性格もめちゃくちゃ良かった。 普通に考えれば好きになってもおかしくないどころか好きになって当然なぐらいの
女の子だったんだけど、俺はまったく恋愛感情を抱かないまま育った。
それは向こうも同じだったようで、中学2年生の下校中、
こんな会話をしたのも今でもはっきり覚えている。
俺「お前ってめちゃくちゃ可愛いけどさ、恋愛感情って抱いたことないなー。
マンガとかの設定ってあれマジなんだなー」
幼なじみ「そうだね。私も俺くんのこと好きになったことないね」
俺「マンガとかだと【ただの幼なじみだと思ってたけど、でも実は・・・】とかなんとかで、
最後は結局くっついたりするけど、あれはゼッテー嘘だよなw」
幼なじみ「そうだね〜w」 ド田舎だったので、俺と幼なじみは幼稚園、小学校、中学校とずっと同じクラスだった。
更に9クラスぐらいある高校でも2年までは同じクラスだった。
それもマンガみたいだなと当時は思ってた。
高校では部活も一緒だったから、マジでそばにいるのが当たり前の存在だった。
そんな関係が変わったのは高校卒業後だった。
俺と幼なじみは別々の進路を選んだ。
おまけに幼なじみは寮制の大学に入ったから、顔を合わせる機会がいっっきに減った。 そのころから、俺はめちゃくちゃにテンションが下がった。
ことあるごとに幼なじみの顔を思い浮かべ、会いたい気持ちを抱くようになった。
初めて、俺は幼なじみのことがメチャクチャ好きなんだということを自覚した。
家族愛に近いものなのか恋愛感情なのかはわからなかった。
とにかく幼なじみに会いたくて、たまに会えたらメチャクチャテンション上がって、
そしてまた会えない時期はメチャクチャ寂しくなっていた。
好きだって伝えればいいのかな? と何百回と考えた。
でも中学のときの幼なじみの言葉を思い出したり、もしOKをもらえても、
自分が思い描いていた関係になれなかったらと思うと、勇気が出なかった。 そうして月日は過ぎて、成人式を終え、学生生活を終え、社会人になった。
幼なじみは保育士になり、俺は働いている人はホワイトだけど勤務時間はブラック気味な会社でサラリーマンをしていた。
幼なじみと顔を合わせる機会は、更に減っていた。
ある年の正月、小学校時代の友人から電話が来た。
曰く、「小学校の卒業前にタイムカプセル埋めたじゃん? あれ20になったら掘り起こすハズだったのにスルーされたまんまだから今から掘り起こそうぜ」
とのことだった。
小学校に着くと、小学校時代の同級生が8割ぐらい揃っていた。幼なじみもいて、俺はめちゃくちゃテンションが上がった。
てんやわんやの末にタイムカプセルは見つかり、中身を見てみんなでギャーギャー楽しく騒いだ。
最後に記念写真を撮って、楽しい気持ちでいたところに、俺はとんでもない話を耳にした。 旧友「そういや幼なじみ、結婚するんだってな」
頭をぶん殴られたような感覚だった。
それから3日ぐらい、ずっとそのことばかりを考えていた。
物凄く落ち込んだけど、幼なじみの結婚相手は俺も知ってるやつで、
めちゃくちゃ良いヤツだってことを知ってたから、
少しずつ祝福の気持ちを大きくしていくように努めた。 2か月後、幼なじみは俺の隣で一緒にDVDの映像を見ていた。
経緯としては、
正月に掘り起こしたタイムカプセルから8mmやVHSのテープが出てきた。
それをどうにか再生できないかと俺が自宅に持ち帰り四苦八苦。
ようやく再生できるようになったのでDVDにダビングして小学校のクラスメイトに配ることに。
幼なじみがそれを知ると、次の日曜に俺の実家でその映像を見たい、との申し出。 映像の中身は、小学校時代の劇の練習や劇の本番、他にはたわいない生活を送る様子が収められていた。
子供時代の姿を懐かしみながら見ていると、幼なじみが世間話のように言った。
「そういや私ね、俺くんのこと好きだったんだよ」
脳みそがぶっ壊れて幻聴を聞いたのかと思った。
「小学校6年のときにね、〇〇が俺くんに告ったじゃない。それで私すごく嫌な気持ちになって、
それで俺くんのことが好きだって気づいたんだ。
でもさ、俺くんは私のこと恋愛対象として見てないっぽいし、
それは中学や高校に行っても変わらなかったし、だから大学行く頃には諦めたんだけどね」
俺はその大学に行く頃からお前のことが好きなことに気づいたんだよ。
なんで今このタイミングでそんなこと言うんだよ。
そんな言葉が頭に浮かんで、言おうかどうか迷って、めちゃくちゃ迷って、結局言わなかった。
そして、その話はテキトーに受け流し、ふたりで子供時代の映像をわいわい見て、
幼なじみは帰った。
翌週の3月13日に幼なじみの結婚式を控えた、2011年3月6日のことだった。 震災当日の、地震の瞬間。
俺は仙台駅にいた。
揺れだして、周りがパニックになって、停電になった。
俺は非日常にむしろテンションが上がって、仙台駅周辺の破損などをしばらく見て回っていた。
俺はバカだった。
そうして18時ぐらいまで散策したあと、駅前で報道の車が停まって中継をしていたので、
俺は「お、ニュースに映ってるかな俺?」とか思ってケータイのワンセグを見たりしていた。
中継映像に映っているのを確認した俺は、ますますテンションが上がった。
そして俺は、津波が来ていたことを、そのとき初めて知った。 ニュースから流れてきたのは、仙台空港が津波によって飲み込まれる映像だった。
そして仙台空港は、おそらく俺の地元よりも、よっぽど海から離れたところにあった。
思考が薄く浅くなった。
え? 津波? 仙台空港が? え? じゃあ俺の地元は? 俺の実家は?
え・・・? どうしよう・・・。帰る・・・か・・・。
俺は仙台駅に停めてあった原付で、地元に向けて走り出した。 停電+帰宅ラッシュで、とんでもない渋滞になっていた。
それでも実家までの行程を6割ほど来たところで、裏道を通っていた俺は、原付を停めた。
道路に水が溢れていた。
また思考が薄くなる。
ここに水・・・? だってここって・・・俺の地元よりめちゃくちゃ海から離れてるぞ・・・?
じゃあ・・・やっぱり俺の地元は・・・?
1分ぐらい呆然として、海から遠ざかるルートで地元を目指した。 途中、完全に渋滞で動けなくなり、仕方なく歩道を原付で押し歩き始めた。
歩道には明かりもなく歩く人たちがそれなりにいたから、
原付のライトで照らしながら先導した。
60〜70ぐらいの男性と少し話した。
「妻が普段から寝たきりだから心配で。部下の自転車借りて仙台から帰ってきた。
近所の人が助けてくれてるといいんだけどな・・・。
自宅のほうに行ってみる。滅茶苦茶になってるかもしれないけどさ」
その男性は、途中で自宅のある海方面への道路へ去っていった。
恐らくすぐに海まで埋め尽くす瓦礫の山に遭遇することになったとは思うが、
その後のことはわからない。 やっと地元に着いた。
けれど、地元は、俺の知ってるものではなくなっていた。
瓦礫、瓦礫、瓦礫、ひたすら瓦礫で埋め尽くされていた。
俺は真っ暗の中で実家に向かうことをあきらめ、避難所で一晩過ごした。
ちなみに家族とはこのとき連絡が取れ、全員無事であることを確認できた。
翌朝、俺は実家のあった場所に向かった。
何もかもが洗い流されてなくなっていた。 呆然とした。
朝日がとてもきれいで、崩壊した地元の姿がまったく現実のものとは思えなかった。
目的もなくうろうろしていると、瓦礫で動けなくなってる人がいた。
周辺の人たちと協力し、2〜3人ほどを救助し、しばらくは生存者を探し歩いていた。
そんな中、瓦礫の海の中に見慣れた建物があった。
幼なじみの家の2階部分だった。 このとき、俺は初めて幼なじみの安否が気になった。
実家は無くなったが家族は無事だった。だから隣の家の幼なじみも当然大丈夫だと思っていた。
そもそも、幼なじみが津波の被害に遭う場所にいたとも限らない。
幼なじみに電話をした。繋がらない。メールもした。送信失敗。
あるいは、送信はできたが返信がなかったのだったか。
それでも俺は、大して不安視していなかった。
瓦礫に浮かんだ幼なじみの家を目指す。
到着。
中学ぐらいまではしょっちゅう過ごしていた幼なじみの部屋部分もあった。
室内にあるものはぐちゃぐちゃになっていたが、幼なじみが所有していた本棚のマンガなんかも見えた。
俺は、万が一を考えて幼なじみや幼なじみの家族の名前を呼びながら室内や2階部分を探した。
幸いなのかどういうべきか、誰も見つからなかった。 それから3日ぐらい経った。
生存者の捜索は遺体の捜索にしかならなかった。
確か十数体は発見したと思う。
避難所の生活も確立し始め、小学校時代のクラスメイトとも顔を合わせた。
ライフラインが幾らかマシになり始め、安否の確認が進む。
結果として、小学校、中学校時代の同級生は、ほぼ全員が無事なことが分かった。
ただ一人、幼なじみの安否だけが不明なままだった。 最初は、まさか、と思っていた。
まさか、ほとんど全員無事だったのに、幼なじみだけが、だなんて、そんなことあるわけないと。
ケータイが壊れたから連絡が付かない、遠方の避難所に行ったから連絡がつかない。
そんなところだろうと思っていた。
けれど時間はどんどん過ぎていった。
何日経っても、幼なじみの安否だけが分からなかった。
クラスメイトの一部は、毎日遺体安置所に足を運び、幼なじみがいないか確認していた。
俺は一度も行かなかった。
幼なじみの情報が入った。
地震後に、家族を乗せて車で海から離れようと走っているところを目撃した人がいたらしい。
それ以外は不明だった。 10日が過ぎた。
俺は、【幼なじみは当然無事】という考えから、
【たぶん無事だろう】という考えになり、
【最悪の可能性も考えなくちゃなのか】という考えになり、
そして【もうダメなんだろうな】という考えになっていた。
淡い希望を抱いて砕かれるより、諦めておいたほうが、精神的にも楽だった。
そして3月24日、中学校時代の友人が俺に告げた。
「幼なじみ、見つかったってさ」 【見つかった】というのが、どっちの状態でだったのかは聞くまでもなかった。
流された車の中で、幼なじみの家族ほぼ全員が亡くなっていたそうだ。
俺は大した動揺をしなかった。
「そっか・・・」とだけ告げて、その後も避難所の必要な作業をあれこれし終えた。
その後は避難所の外で毎晩焚かれていた焚火を見ながらボケーっとしていたのを覚えている。
幼なじみの遺体は、その3日後に土葬されることになった。
そしてその前日、地元に設置された遺体安置所に置かれ、最期のお別れが出来るとのことだった。 2日後、俺は遺体安置所に向かった。
とても怖かったのを覚えている。
幼なじみの死と向き合いたくはなかったけれど、最期に顔を見れないのはもっと嫌だった。
遺体安置所の受付に行って、プレハブの建物に通された。
白い棺が20ぐらい並んでいて、そのうちの一つに、幼なじみの名が記された紙が貼ってあった。
棺の頭部部分に設けられた小さな窓を緊張しながら開く。
その窓の向こうに幼なじみの顔があると覚悟していたのだが、見えたのは
ファスナーで閉じられた灰色の寝袋のようなものだった。
棺の蓋を外すと人の形をした寝袋が棺に収まっていた。
普通の寝袋と違うのは、ファスナーが完全に密閉できるところまで
閉められる作りになっていることだった。 俺は恐る恐るファスナーを開いた。
腐臭が広がった。
ファスナーの奥に見えたのは、茶色い毛布。
その毛布をゆっくり左右に開くと、幼なじみの顔がそこにあった。
目は閉じられていて、顔のあちこちが緑や紫や赤や青に変色していて、
でも生前そのままの、眠っている顔にイタズラで絵の具を塗っただけのような、
そんな姿だった。 俺は平静だったと思う。
「時間経っちゃった割にはキレイじゃん」とか、
「でも臭いな。臭くなっちゃったな、お前」とか
「とにかく見つかってよかったな」とか一人で喋っていた。 そうして5分ぐらい過ぎたころ、俺は幼なじみの長くてきれいだったまつげが、
生前そのままの姿でまぶたから伸びていることに気づいた。
瞬間、中学時代のやり取りを思い出す。
休み時間、唐突に「まつげにシャー芯は乗せられるのか」という話題になり、
俺は幼なじみのまつげにシャー芯を乗せることに成功した。
「え!? これどうなの!? どうなってるの!?」
と、目を閉じているから成否がわからない幼なじみと、
その姿がツボに入った俺とでゲラゲラ笑っていた。
そして、改めて幼なじみが目の前で死んでいることを実感する。
涙が出た。一度決壊すると後はどうしようもなくなって、呼吸もできなくなるぐらい、
涙ってこんなにも溢れ出てくるものなのかの驚くぐらい、しばらく泣き続けた。 悲しみと同時に、怒りがあった。
幼なじみは良いヤツだった。ものすごく良いヤツだったから、
それに見合った幸せを得るべき人間だと思っていた。
それなのに、街中で見かけるゴミみたいな連中がのうのうと生き長らえているのに、
幼なじみは津波という天災によって命を失った。
あまりにも理不尽だった。
なんで、なんであんな連中が生きてるのに、お前が死ななくちゃならないんだよ
そんな言葉を、涙と鼻水があふれ、嗚咽で呼吸もままならない中で口にしていた。 10分か15分か。
ようやく落ち着いた俺は、幼なじみに最期の別れを告げた。
翌日、幼なじみの土葬が執り行われた。確か火葬が追い付かないため
暫定で土葬するしかなく、幼なじみ以外にも何十人分もの棺がショベルカーで土を被せられていった。
女子連中は幼なじみの棺の中に色紙とか花とか入れていた気がする。
俺は何も入れなかった。
こんなところだろうか。 どうして突然こんなこと書こうと思ったのかわからない。
3〜4時間前までまったく考えてもいなかった。
どっかに残しておきたくなったのかな。
お疲れ様でした。 https://www.youtube.com/watch?v=cvTvj9fPo6A
インスタ動画を別サイトに晒して責めるのはよくないよ
そんな動画を投稿する奴が悪いとかは第三者にとっては関係ないです。
その高校生がインスタで何しようとインスタを利用してない人には関係ないです >>27
仮の土葬だと石巻とか東松島のあたりかな。
だんだん記憶も薄れてく。日常生活で話す事もないし。こういうとこじゃないと書きづらいよね。