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 ファイルには、20年間「封印」されていた闘いの跡が確かに記されていた。2002年、衆院議員だった石井紘基(こうき)氏が東京都世田谷区の自宅前で刺殺された。後には、独自の調査で政官業の癒着に切り込んでいた石井氏が集めた、段ボール63箱分の資料が残された。安倍晋三元首相が銃撃され亡くなった後、記者は石井氏が、安倍氏の事件で注目された教団の問題に取り組んでいたことを知り、その資料を開封した。そして1冊のファイルを見つけた。

 石井氏は、1993年の衆院選で日本新党から出馬して初当選。民主党に所属していた3期目のさなか、右翼活動家に刺殺された。

 記者は15年、取材先を通じて遺族と知り合った。事件の真相に迫る手がかりが残されていないか、石井氏の調査を生かすことはできないか、継続して取材をしてきた。そこに22年夏、安倍氏の銃撃事件が起きた。

 何度も読んできた石井氏の追悼文集を改めてめくっていると、名も知らない1人の男性の文章に目が留まった。90年代に起きた統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の東京・世田谷進出に反対する住民運動に、石井氏が関わってくれたことを感謝するものだった。「状況を彼流の手法で調べ、追い出す作戦をたてた」と記されていた。

 安倍氏の事件を機に、教団を巡るさまざまな問題がクローズアップされている今。当時の騒動をどう解決したのか、石井氏がどんな後押しをしたのか、知りたかった。22年10月初め。当時を知る住民ら、関係者を訪ね歩く取材を始めた。

 当時のいきさつは把握できた。95年10月、世田谷区の閑静な住宅街・成城。2階建て、延べ床面積300平方メートル超の空き家を所有していた都内の建設会社が教団関係者と、月額100万円で賃貸契約を結んだことが始まりだった。住民には「教会に使う」と説明があった。