昭和19年、親父は鈴鹿からの帰路東南海地震に遭遇したそうだがとても立っている事が出来ずその場にしゃがみ込んでしまったそうだ。
家は昔ながらの木造家屋だったがダメージはなかったそうだ。
母も学校内で地震に遭遇した。当時の南郊中は海軍工廠跡を使用しており堅牢な作りだったのだろう、こちらもダメージはなかったが揺れが酷く階段を押し合いへし合いしながら外へ避難したそうだ。周囲の高茶屋・城山地域は倒壊家屋や火災が発生したりする事もなかったと言っている。