まぁ世間にはそういう説もあるって認識でしょうね。
取り上げるほど大して問題ではないと思います。
自分は神ではありませんが、風のような人だとは言われたことあります。
まぁ変わった行動してたんでしょうかね。
今の人付き合いはマジメにしてます。だからそう言われることないと思いたい。
二面性はもってるんでしょうね。
マジメとそうでない。
こっちの自分は人によって拒絶の対象です。
やっぱり、自問自答じゃ見えてくるものは限られてる。
来週の浅草の飲み会勧誘メールが届いてたから返事出すかな…
筋肉質の男はかっこいい。筋肉の上に薄く脂肪ならもう羨望だ。
その男は三十路になってから志したと言って、それから20年。
ラグビー選手のような立派な身体になっていた。筋トレは自分で調べたのではなく人からのアドバイスだけだと。
背もまあまああるから頼りがいの男らしい。
自分にはもう届かないのかと戦慄している。
逞しい身体があれば気持ちも変わりますよねと質問に対し彼は
気持ちが変わらないと逞しい身体には届かないよ、とのこと。
社会的底辺の地下にいるような者にとっては
そういう話はマジメに受け止めてしまう。
そんな自分がだっさいなぁと自己嫌悪も湧いてくる。
信念がブレ始めている。あっちこっちに顔出すからだ。
熱く見てたのは4かな。エル・フォルテになりきってたしな。恥ずかしいけど。
心臓をくすぐるって新しい日本語だが、ただ語彙力が追いつかなかっただけです。
君たちはどう生きるか。7月14日か。
一人で観に行こうかな。
神経衰弱というトランプゲームのルールをよく考えると、考えると…。
天ぷらは命と引き換えにSB完成させることができるのだろうか。
全ての数字カードが切られても、ジョーカーだけは残っている。
神経衰弱ではジョーカーが(体内でいえば)心臓なのではないかと感じている。
ジョーカーが生きていれば、まだ間に合う。死んでいない。
負けというのは、勝ちなんだと捉えられる。生き残りの者。
片輪は片輪の人間を好む。片輪同士で友だちになろうと勘違いして驕る。
大衆が納得しやすい思想を持たない。私の思考にも吃音があるようだ。
こう書いたところで、何の慰めにもならない。結局他人を疲れさせるだけなんだ。
柏木…、禅僧の血を持つ者としての振る舞い…、三度目を読むと嫌に人間的な印象です。
自分もこうして人間になるために足掻いているのです。
「グラウンドをしばらくぶらぶらするか」
と柏木が言った。私に先立って電車通りを渡った。
体全体の動きを猛烈にして、ほとんど車の通らぬ車道を、
水車のように狂奔して渡るのである。
グラウンドは広大で、講義を怠けているか休講かの学生が、
幾組か遠くでキャッチ・ボールをしており、こちらでは五六人がマラソンの練習をしていた。
戦争がすんで二年しかたたないのに、青年たちは再び精力の消耗を企てていた。
私は寺の貧しい食事を考えた。
われわれは朽ちかけた遊動円木に腰かけて、楕円の上を近づき又遠ざかるマラソンの練習者たちを、見るともなしに眺めた。
学校を怠けている時間の、下ろしたてのシャツのような肌ざわりが、周囲の日ざしや微かな風のそよぎから感じられた。
競技者たちは苦しい息の一団をなして徐々に近づき、疲労が増すにつれて乱れた足音を、舞い立つ土埃と共に残して遠ざかった。
「阿呆な奴らだな」と、負け惜しみにきこえる余地を少しも残さずに柏木は言った。
「あのざまは一体何だろう。奴らが健康だというのか。それなら健康を人に見せびらかすことが何の値打があるんだい。
スポーツはいたるところで公開されているね。まさに末世のしるしさ。公開すべきものはちっとも公開されない。
公開すべきものとは、……つまり死刑なんだ。どうして死刑を公開しないんだ」と、夢みるようにつづけた。
「戦争中の安寧秩序は、人の非業の死の公開によって保たれていたと思わないかね。
死刑の公開が行われなくなったのは、人心を殺伐ならしめると考えられたからだそうだ。
ばかげた話さ。空襲中の死体を片附けていた人たちは、みんなやさしい快活な様子をしていた。
人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、和やかにするんだのに。
俺たちが残虐になったり、殺伐になったりするのは、決してそんなときではない。
俺たちが突如として残虐になるのは、たとえばこんなうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、
木洩れ陽の戯れているのをぼんやり眺めているときのような、そういう瞬間だと思わないかね。
世界中のありとあらゆる悪夢、歴史上のありとあらゆる悪夢はそういう風にして生れたんだ。
しかし白日の下に、血みどろになって悶絶する人の姿は、悪夢にはっきりした輪郭を与え、悪夢を物質化してしまう。
悪夢はわれわれの苦悩ではなく、他人の烈しい肉艇的苦痛にすぎなくなる。
ところで他人の痛みは、われわれには感じられない。何という救いだろう!」
柏木の独断を理解し、反芻しているところをここで見せびらかすのも、一種の自惚れに近い。
気楽な男子や、イマドキの女子共は「気色悪い」と蔑みの目で私を一瞥するだろう。
そうすることで、私は自我が保たれていると自己陶酔に心が満たされたつもりになれる。
最近の精神安定剤は、虚数の情緒から山川日本史にシフトしたな。
LUNERの彼方を目指してはリピートで聴きたくなる。動画は消えてしまったが、DLして残ってる。
自分に一度嘘をつくと、尾を引いて情緒不安定になるな。
強くないから、こうなることは生きて散々学んだだろう。馬鹿だ。
最近は後ろを振り向くという過去を振りかえることが少なかった。今日は振りかえる、その日の夜だ。
他人と比べてしまう。これが自身の混乱に生じてしまう。