きんちく2
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社会の隅に存在する者による自己主張。また立ててしまいました。 でも書いてから自分の頭で気がつくことがこの遊びではよくあります。 私にとって書く行為と見る行為はとても有意義な勉強法だと思ってます。 こんなところでやらないでいいのに、という意見もあるでしょうね。 たぶん10年以上前からここで何かしていたので、体が覚えてしまったんでしょう。この喜びに。 忘れないうちにここを見ている時の雰囲気を置いておきましょう。
https://youtu.be/joaV2VLee_o 家に居る時はこういうBGMを流すことで気持ちが落ち着きます。 この動画を見つけたのは、四街道(よつかいどう)市の「どろんこ祭り」を遂行した日の夜でしたね。 小柄なりに精一杯動きました。
田んぼの上で騎馬を、上に乗る役として組んで、
合図が始まると突進して他の騎馬とぶつかって、
崩れて頭から落ちる。その先は田んぼの泥沼。 頭から足まで泥まみれになりましたね。
こういう祭りの場合、汚れてなんぼだと思いましたので、
かえって誇らしかったです。 まぁこんな日記を交えながら、テキトーな事を記していこうかと思います。 今日の午後はクラフトボスの太陽のアセロラティーをともに、お世話になりました。 風邪を引いてるので、シャワーして読書してから明日に備えます。
読書をする目的は大したことではありません。ただ癒しなのです。 三文小説といえば聞こえの悪い言葉かもしれないですが、
そういった物の方が特に若者を含めた大衆に馴染みやすい物なのではないかと思ってます。 本を読む習慣があまりない人が多いこの御時世。
読まない人が読むために、純文学とかいったハードルの高い書物を選びがちです。
初めは児童文学向けの図書なんて見向きもしないでしょうね。 それは落とし穴なのです。
本を読むこと自体ハードルが高く、習慣ほどなかなか続けられません。
長編大作は確かに魅力的ですが、ここは一旦敢えて児童文学から手をつけてみてはどうでしょうか。 大きな問題の解決をするためには、まずその小さな問題から見つけることが解決しやすいといわれてます。
そんな抽象的な言い訳はさておき、児童文学の書物は意外と読み応えがあるように思います。
これは先に偉そうに言った私も、落とし穴に嵌まっていたことを気づかされました。 話し相手がいればもっといいですがそんな贅沢なかなかできる機会はありませんね。
いたとしても認識の違いで異論を唱えて、それが喧嘩の種になってしまう。
つまらないことで本を読まなくなるリスクも考えなければなりません。 要するに、ここは簡単なものから慣らしていった方がいいという単純な問題なのです。
児童文学は読書術を鍛えるのに持ってこいの、訓練的なものなのです。
人に話したくなる話題は、児童文学の方が見つけやすいのです。 逆に無理にハードルを上げて純文学を読んでも頭に入りません。
まだ入ることはできないのに読み進めても、ただ時間が経ってしまうばかりです。
ここは志の高い自分から少しレベルを下げることで、余裕が生まれるのではないかと思うのです。 ルビの多い書物も読む気が失せてしまうのではないのかと思われます。
誰しも学生経て社会人になった人が、自分の劣等を克服するために書物に手をはじめることが多い。
安手の漫画ごときと思って、それより本格的な学術書を選びたいと思うのはおかしいことではありません。私もそうでした。 この長文を書いていると言いたいことがわからなくなってきました。これがまさに落とし穴なんです。
複雑に考えた方が物事を理解しているという錯覚に陥ってしまうのです。
でもそれは聴衆含め自分さえも理解の難しいただの文字並べで、意味がなくなってしまいました。 こういう長文から、たった少ない文字で纏めて解釈することも勉強なのか…
それは両論はあると思います。作家からすれば何字以内に纏めよという質問は遺憾に思われるらしいです。
でも大多数の聴衆は難しい文章問題を、簡潔に何字以内という作業は積極的になりやすいんじゃないでしょうか。 その作業を熟すことで読書術も磨かれるみたいです。
ただしここも落とし穴があって、他人の答えばかり見て満足してしまう癖をつけないことです。
他人の意見も参考になることばかりですが、まずは自分の意見を作ってみてからの方がそれこそ解決しやすいと思うのです。 些細なことでこんな長文を書いてしまいました。
他人にわかりやすく物事を伝えるには、まだ私のレベルでは足りないのでしょう…
これは教訓として自責しておきましょうかね。 なんか啓蒙系のアフィブログにあるような話にも見えますね…。敬語も雰囲気が増しています。 8月予定の一人ホテル合宿の際、この配信の世話になるかもしれませんね。何の宣言かわかりませんが。 こっちでも飛べるようにしておきましょう。このブラウザからだと広告は出ないようです。
Gentle Madman
https://youtu.be/7JNGcfrx3U0 ワクチン6回は少数派なのか…。ネット以外でもさまざまな情報が飛び交っています。 金儲けのためでしょ、とは言うけれど6回射ってまだ無料です。 まぁここで話すことではありませんね。情報戦争から一歩身を引くくらいで平静保ちましょう。 Melodies Of Life~Final Fantasy
https://youtu.be/Y8vCIGf8EgQ
2000年のゲームですね。希望というより安心感が得られた物語でした。
リマスター版やろうかな。 苦手だな…と思った人からは距離を置いた方がいいと思った今日。こんな者が言うのも何ですが。 リアルの自分は案山子に近いですからね。
ステルスになるほど器用ではありませんが。
損な役回りになりやすいです。 そんなリアルからのストレスが、こんな自分をネットで生んだのですが。
申し訳ないですがこの経験はリアルに活かされています。
発表の技法が自分なりの成長をさせているみたいです。良い事も、悪い事も。 「本読め」は割と囁かれているみたいですね。
今日のNHKでもやってました。こういう時代だからこそ読書。
崇拝するほどじゃないですが、しててもいいよねってニュアンス。 本は読んでいるが、まだ人に話せるほどの思考になれていない。
金閣寺は読んだが、その内容を上手く話すことができなかった。
吃るクンの意図を人に納得させるように説明することができなかった。 文章を作ることもあんまり得手じゃないように思う。
この辺はまだ険しい勉強段階だな。 独学で身につくのは無理なんじゃないかなという諦めもある。 ここちゃん、ツイッターで芸人とリアル。生きてるって感じだな。 ¥真超深TION¥
https://nico.ms/sm17968534
所謂集団ストーカーとそれを街宣する人達の風刺みたいな物だと思ってる。 統失に仕立て上げられてしまった人達からすれば、
この様な現実にいながら腸が煮えくりかえる思いだったろう。
自分は病気じゃないということに信じきっていたから。 集スト員は半分わかりながら街宣をする人を邪魔しただろう。
街宣者の神経を逆撫ですることに快感を覚えてたから。 だとすれば集スト員も街宣者もただのレッテルに過ぎない。 個人的にフォーカスするが、丁寧に抗うなら
セツナブルースターの「みんなの歌」の歌詞の様なものだろう。
某配信者に勧められてから今でも聴いている。 ただこれを聴くならアルバムの順番で聴くことを私はお勧めする。
そしてその後の「四度目の青春」は夏の青春を想起させられて、
映画「檸檬のころ」をまた見たくなる。学生の青春は良いな。 尚、私はこのような経験はなかった。
内容の意味は今でなら理解持てるが、
もっと早くこの思考を身につけたかった。 それにしてもポエムだが今はこうするしかない。
いずれ論理的文章で書きあらわせられるように。 「檸檬のころ」よかったわ~。歌詞をつくりたくなるね。 ゲーム起動して、タイトル画面を見てから、
音楽いいね、でももういいかなーってやめてしまう。 城平海のアンナ・カハルナ、胸が熱くなるな。
風神と雷神、そうなのかもなぁ…
俺もそういう風に考えるようになっちまって久しい。 まぁ世間にはそういう説もあるって認識でしょうね。
取り上げるほど大して問題ではないと思います。 自分は神ではありませんが、風のような人だとは言われたことあります。
まぁ変わった行動してたんでしょうかね。
今の人付き合いはマジメにしてます。だからそう言われることないと思いたい。 二面性はもってるんでしょうね。
マジメとそうでない。
こっちの自分は人によって拒絶の対象です。 やっぱり、自問自答じゃ見えてくるものは限られてる。
来週の浅草の飲み会勧誘メールが届いてたから返事出すかな… 筋肉質の男はかっこいい。筋肉の上に薄く脂肪ならもう羨望だ。
その男は三十路になってから志したと言って、それから20年。
ラグビー選手のような立派な身体になっていた。筋トレは自分で調べたのではなく人からのアドバイスだけだと。 背もまあまああるから頼りがいの男らしい。
自分にはもう届かないのかと戦慄している。 逞しい身体があれば気持ちも変わりますよねと質問に対し彼は
気持ちが変わらないと逞しい身体には届かないよ、とのこと。 社会的底辺の地下にいるような者にとっては
そういう話はマジメに受け止めてしまう。
そんな自分がだっさいなぁと自己嫌悪も湧いてくる。 信念がブレ始めている。あっちこっちに顔出すからだ。 熱く見てたのは4かな。エル・フォルテになりきってたしな。恥ずかしいけど。 心臓をくすぐるって新しい日本語だが、ただ語彙力が追いつかなかっただけです。 君たちはどう生きるか。7月14日か。
一人で観に行こうかな。 神経衰弱というトランプゲームのルールをよく考えると、考えると…。 天ぷらは命と引き換えにSB完成させることができるのだろうか。 全ての数字カードが切られても、ジョーカーだけは残っている。 神経衰弱ではジョーカーが(体内でいえば)心臓なのではないかと感じている。 ジョーカーが生きていれば、まだ間に合う。死んでいない。 負けというのは、勝ちなんだと捉えられる。生き残りの者。 片輪は片輪の人間を好む。片輪同士で友だちになろうと勘違いして驕る。 大衆が納得しやすい思想を持たない。私の思考にも吃音があるようだ。 こう書いたところで、何の慰めにもならない。結局他人を疲れさせるだけなんだ。 柏木…、禅僧の血を持つ者としての振る舞い…、三度目を読むと嫌に人間的な印象です。 自分もこうして人間になるために足掻いているのです。 「グラウンドをしばらくぶらぶらするか」
と柏木が言った。私に先立って電車通りを渡った。
体全体の動きを猛烈にして、ほとんど車の通らぬ車道を、
水車のように狂奔して渡るのである。
グラウンドは広大で、講義を怠けているか休講かの学生が、
幾組か遠くでキャッチ・ボールをしており、こちらでは五六人がマラソンの練習をしていた。
戦争がすんで二年しかたたないのに、青年たちは再び精力の消耗を企てていた。
私は寺の貧しい食事を考えた。 われわれは朽ちかけた遊動円木に腰かけて、楕円の上を近づき又遠ざかるマラソンの練習者たちを、見るともなしに眺めた。
学校を怠けている時間の、下ろしたてのシャツのような肌ざわりが、周囲の日ざしや微かな風のそよぎから感じられた。
競技者たちは苦しい息の一団をなして徐々に近づき、疲労が増すにつれて乱れた足音を、舞い立つ土埃と共に残して遠ざかった。 「阿呆な奴らだな」と、負け惜しみにきこえる余地を少しも残さずに柏木は言った。
「あのざまは一体何だろう。奴らが健康だというのか。それなら健康を人に見せびらかすことが何の値打があるんだい。
スポーツはいたるところで公開されているね。まさに末世のしるしさ。公開すべきものはちっとも公開されない。
公開すべきものとは、……つまり死刑なんだ。どうして死刑を公開しないんだ」と、夢みるようにつづけた。 「戦争中の安寧秩序は、人の非業の死の公開によって保たれていたと思わないかね。
死刑の公開が行われなくなったのは、人心を殺伐ならしめると考えられたからだそうだ。
ばかげた話さ。空襲中の死体を片附けていた人たちは、みんなやさしい快活な様子をしていた。
人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、和やかにするんだのに。
俺たちが残虐になったり、殺伐になったりするのは、決してそんなときではない。
俺たちが突如として残虐になるのは、たとえばこんなうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、
木洩れ陽の戯れているのをぼんやり眺めているときのような、そういう瞬間だと思わないかね。 世界中のありとあらゆる悪夢、歴史上のありとあらゆる悪夢はそういう風にして生れたんだ。
しかし白日の下に、血みどろになって悶絶する人の姿は、悪夢にはっきりした輪郭を与え、悪夢を物質化してしまう。
悪夢はわれわれの苦悩ではなく、他人の烈しい肉艇的苦痛にすぎなくなる。
ところで他人の痛みは、われわれには感じられない。何という救いだろう!」 柏木の独断を理解し、反芻しているところをここで見せびらかすのも、一種の自惚れに近い。
気楽な男子や、イマドキの女子共は「気色悪い」と蔑みの目で私を一瞥するだろう。
そうすることで、私は自我が保たれていると自己陶酔に心が満たされたつもりになれる。 最近の精神安定剤は、虚数の情緒から山川日本史にシフトしたな。 LUNERの彼方を目指してはリピートで聴きたくなる。動画は消えてしまったが、DLして残ってる。 自分に一度嘘をつくと、尾を引いて情緒不安定になるな。 強くないから、こうなることは生きて散々学んだだろう。馬鹿だ。 最近は後ろを振り向くという過去を振りかえることが少なかった。今日は振りかえる、その日の夜だ。 他人と比べてしまう。これが自身の混乱に生じてしまう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています