沖縄県はハンセン病が多く発生してきた地域であり、
20世紀末には日本人の新規発症者の6割から7割を沖縄県出身者が占めているが、
沖縄社会のハンセン病に対する差別や迫害は厳しいものであった。

シマではハンセン病者(「クンチャー」と呼ばれ、これは乞食を意味する
琉球方言である)をガマ、崖地、ゴミ捨て場などに隔離し、
シマに戻ることを禁じる文化があった。亡くなっても一族の墓には入れず、
逆さまにして埋め、二度と生まれてこないよう呪いをかけた。昭和50年代に
火葬場が増えてから沖縄にも本土式の葬儀が広まった が、その下でも
遺骨に炒り豆を置く呪い(「これが芽吹いたら生き返ってこい」という
意味だが、炒ってあるので絶対に芽は出ない)が行われている。

近代医学的なハンセン病医療の場を作る動きに、沖縄県民は激しく
抵抗した。国立ハンセン病療養所設置を阻止するための暴動(嵐山事件)が
起きたり、療養所設置を求めた青木恵哉ら、ハンセン病患者が焼き討ちに
あったりもしている。その青木らにより、ようやく開園にこぎつけた
沖縄県立国頭愛楽園(現在の国立療養所沖縄愛楽園)は、地域社会との
交流が他の療養所以上に乏しかった。

感染性への誤解も根強く、琉球新報は投薬治療中の教員から児童へ感染が
広がっているという誤った考え方を主張し(後に他紙記者により「沖縄
戦後ジャーナリズム最大の汚点」と指弾される)、またらい予防法廃止前に
行われた世論調査では住民の87%がハンセン病患者の全員隔離に賛成という
結果が出ている。