>>577
戊辰戦争以降朝敵の汚名を着せられた会津は地獄だった

戊辰戦争後の会津は麻生太郎の先祖の薩摩藩士、通称鬼県令の三島通庸に酷い弾圧をうけた。三方道路の設立に伴い無理な人足を設け、工事に参加できないものには金を取り住人に苦役を強いた。戊辰戦争で荒廃した会津に住む領民は家財や子女を売りに出すものが後をたたず困窮を極めた。

怒った領民が対抗しようと蜂起し、それを当時薩長閥から追い出された土佐閥と三春藩だった河野広中が言葉は悪いが利用したのが会津での自由民権運動の始まりだ。
その鎮圧に三島は戊辰戦争後貧乏暮らしで追い詰められた会津藩士を走狗として使い帝政党というヤクザのような政党を立てて集会に討ち入りさせたり不当な逮捕で反抗するものは何人も刑務所に入れられた。板垣退助は会津討伐の最先鋒であり会津藩士の仇敵でもあったから薩長に従ったという背景もある。
これが世にいう喜多方事件、福島事件だ 。
薩長と会津は結託し県政を薩摩と会津の元士族で固めて独占し、福島の自由民権運動は潰えた。
分割統治…まるで薩長の親玉だったイギリスアメリカのやり口のように現地の福島県民は対立させられ、結束は分断された
http://kumando.no.co....jp/mj/mj070110.html
帝政党を立てて成り上がり地元の名士になった町野主水と容保は息子を含め家族ぐるみの付き合いだった
この息子の町野武馬は張作霖の軍事顧問となり(何故か暗殺直前に本人は列車から離脱して生還…)戦後は吉田茂の相談役で佐藤栄作に90°のお辞儀をさせ笹川良一と懇意だったとか

容保の息子も軍人をやってたし若松には稚松会なんて会津ゆかりの軍人の集まりもあった
ここを掘れば何かとんでもない事がわかるんじゃないかと思っているんだが誰か詳しい方はいないか?
会津と言えば戊辰戦争ばかりで中々書籍も見つからないんだ