>>427
かの「三川分流工事」は薩摩藩の密貿易で得た不正蓄財を幕府の隠密が報告して
薩摩藩のお取り潰しを免れるために実質尾張藩監視の下 幕府の命令で難工事を課せられ不正蓄財を全て吐き出させたただけ。
結果は工事の進捗率が半分程度で財政難に陥ったところで一件落着。
なお薩摩藩は、オランダとの長崎貿易での幕府献上品をオランダ船の寄港先の坊津(ぼうのつ)で検品と称して「中抜き」しては不正蓄財を働き倒幕の準備をしていた。
また島津家は積極的に一族の姫君を時の将軍の正室へと送り込んで徳川家を懐柔していた。
よって薩摩藩は親藩・松平薩摩守として軍艦を所持することが出来、参勤交代の際は、坊津から大坂まで軍艦で移動して、
大坂から西国街道で京に上って朝廷に挨拶をしてから東海道を使って江戸まで大名行列で歩かされた。
なお薩摩藩の将軍への献上品は「豚肉の味噌酢け」。
徳川慶喜はこれが大好物で別名「豚将軍」と影で呼ばれていた。
公称77万石(実質35万石とも)と尾張藩の62〜75万石より石高をふっかけたので、
身分不相応な豪勢な大名行列をさせられた。
江戸時代の領土の大半がシラス台地の薩摩藩では川内(せんだい)平野以外では米が栽培できなかったので、殆ど米が取れず。
食料として奄美島嶼(あまみとうしょ)から取り寄せた「甘藷(薩摩芋)」とそれを餌にした「薩摩黒豚」しか特産品がなかった。