2月22日は島根県が制定した「竹島の日」。
日本固有の領土でありながら韓国に不法占拠されている竹島。
その不法占拠が始まった年から2022年で70年となる中、シリーズで竹島をめぐる問題と現状についてお伝えする。

竹島シリーズの2回目に焦点を当てるのは、大きな社会問題となった日本の漁船の拿捕。
竹島問題の発端が、1952年の李承晩ラインの設定であり、これにともない、大きな社会問題となったのが日本の漁船の拿捕(だほ)。
それを解決する日韓基本条約が締結された1965年までの間に、長崎県の対馬周辺などで日本の漁船が300隻以上拿捕され、約4,000人が抑留、8人が死亡した。

李承晩ラインが与えた竹島問題への影響を紐解く。

拿捕後は「つらいってもんじゃない」
拿捕された元乗組員・前田誠治さん(86):
パンパンと音が響いた。3、4人が銃を持って乗りこんできて、何にも抵抗できない

1954年11月、長崎県の対馬沖で拿捕された元乗組員に話を聞くことができた。

拿捕された元乗組員・小川岩夫さん(83):
とにかく、その時代は(韓国警備隊に)見つかれば、すぐ捕まる

当時・浜田など、山陰から出漁した漁船のうち、22隻が拿捕され、少なくとも約200人の乗組員が抑留された。

島根県在住の前田さんと小川さん。
約70年前の記憶をたどる。

拿捕された元乗組員・小川岩夫さん:
つらいってもんじゃないですわね。私が1番若い(当時15歳)から、トイレ(部屋に置かれた桶)抱えて寝ていた。汚い、臭いなんて言っておられない、寝るところがないから

拿捕後、連行された刑務所では、8畳ほどの部屋に21人が収容され、しゃべることも許されず、寒さと空腹に耐えて過ごした。

その後、移された収容所でも、粗末な食事によって栄養失調になる人もいたという。

前田さんは、3年3カ月にも渡り、帰国することができず、途中、仲間と脱走を試みたことも。

拿捕された元乗組員・前田誠治さん:
(船のエンジンが)結局かからなかった。船を岸に寄せて、収容所へ逃げ帰った。帰れるなら帰ろうかと思ったが、だから仲間に入ったけど

当時、未成年だった小川さんは、8カ月後に帰還するが、精神的にも大きな苦痛だったと振り返る。

拿捕された元乗組員・小川岩夫さん:
そりゃあ辛いですよ、何も悪いことした覚えはないのに、そういう目に遭ってみないとわからないですわね

拿捕問題が日韓基本条約締結に向けた交渉材料に
この拿捕問題が、1951年から1965年まで13年8カ月を要した、日韓基本条約締結に向けた交渉材料にされた。

島根県竹島問題研究顧問・藤井賢二さん:
最初は日本の漁船に、自分たちが開発しようと思っている漁場を荒らされたくなかったことから、(拿捕が)始まった

島根県竹島問題研究顧問の藤井さんは、韓国の強硬対応の背景をこのように語る。

島根県竹島問題研究顧問・藤井賢二さん:
やがてこの拿捕をするというのは、日本の一番の弱点ではないかと気が付きだす