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あの時代になぜそんな技術が!?

ピラミッドやストーンヘンジに兵馬俑、三内丸山遺跡や五重塔に隠された、現代人もびっくりの「驚異のウルトラテクノロジー」はなぜ、どのように可能だったのか?

現代のハイテクを知り尽くす実験物理学者・志村史夫さん(ノースカロライナ州立大学終身教授)による、ブルーバックスを代表するロング&ベストセラー「現代科学で読み解く技術史ミステリー」シリーズの最新刊、『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』と『古代世界の超技術〈改訂新版〉』が同時刊行され、早速、大増刷が出来しました!

それを記念して、両書の「読みどころ」を、再編集してお届けします。まずは、青森県青森市の大規模集落遺跡で、世界遺産にも登録されている「三内丸山遺跡」を取り上げます。

野球場建設地から飛び出した「大発見」
三内丸山遺跡は、青森市の中央街を抜けて青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上に拡がっている。そこは、縄文時代前期から中期まで、つまり、いまからおよそ5500年前から4000年前までの約1500年の間、途切れることなく営まれた大規模な村の跡である。

この地域は、江戸時代から遺跡として知られていたが、本格的な発掘調査が行われたのは1992年からであった。青森県の総合運動場の野球場建設に先立つ調査である。

逐次、大規模な盛土遺構、計画的に配置された500軒以上もの住居跡、大量の土器や石器、土偶、翡翠(ひすい)や黒曜石などの交易品等が発掘されていたが、三内丸山遺跡を一躍、全国的に有名にしたのは、1994年7月の大型掘立柱(ほったてばしら)構造物跡の発掘だった。

この発掘が契機となって、すでに着工されていた野球場の建設が中止され、三内丸山遺跡は永久保存されることになった。

復元された大型建造物
圧倒される「大型掘立柱構造物」
この大型掘立柱構造物跡は、次図「大型掘立柱構造物の柱穴と柱穴に残っていた直径約1mの栗材」に示すように、深さが約2.2メートルの6個の柱穴が3個ずつ、2列に並んだものである(a)。柱穴の底からは、bに示すような直径約1メートルの栗材の柱痕も発見された。この木柱の底部の形は石斧で整えられ、柱の周囲は焦がして腐りにくくなるように加工が施されている。

大型掘立柱構造物の柱穴と柱穴に残っていた直径約1mの栗材
この2枚の写真からも予想されるように、この「掘立柱構造物」はかなりの大きさである。復元されたものを見ればわかるように(記事冒頭の写真)、現場を訪れる者を、まず圧倒するのはその大きさだが、この柱穴の発掘時、専門家を驚かせたのは、

すべての柱が4.2メートルの等間隔で立っていたこと
すべての柱を内側に2度傾けることによって、互いに倒れにくくした「内転(うちころ)び」の技法が使われていたこと
枠を作り、少しずつ土砂を混ぜて固める「版築(はんちく)」の技法を使った形跡があること
だった。

最古の「版築」技法
「版築」技法は、古く中国の竜山文化(黄河中流域で栄えた新石器時代晩期の文化)にはじまるとされ、現在まで存続している建築土木技法で、法隆寺などの建立などに使われていることでもよく知られている。