シベリアにラノベ含む読書の話その9
読み終わるまで間が開くので
あえて立てないでおきました ピーター・ドラッカー『マネジメント 務め、責任、実践IV』
有賀裕子[訳]日経BP(2008)
【企業の規模ってそもそも何なのか?】
企業は、とにかく大きくなればいいと思っていると経営難に陥る。
日本の地域振興やら、外国人歓迎やら、テレビで派手にやりすぎていることはすべてそうなっていると思われる。
たとえば、日本は部分最適だけをする国だ。
各部門、その都度の仕事をしている人たちの内側だけで最高を目指すことをいう。
日本人はみんながみんな、自分の中で最高を目指すと言っている。
他の仕事とのバランスがとれていない。
これは、企業全体の仕事に必要以上の、過剰な成果を出そうとしている。
だから日本のテレビで見かけるものの大半が、ケバケバしくうるさい。
全体との調和がなければ、経営面でも財政難に陥るし、材料は不足する
人間は怒りを育てる。
【規模を正しく設定するのはとても難しい】
わかる人はあまいいないそうだ
少しでも難しいことを考えるのを避けるようでは、辞任したほうがよかろう
『マネジメントIV』では、もっと頭の痛い問題が語られる。
日本の質問を許さない体質は変えなければならない。 【取締役会】
経営者の上司ではないんだが、上司のように口出しする人が多い。
日本では、それが嫌なのだろう。
経営者自らが取締役会のメンバーを兼任するのが普通らしい。
兼任すると、取締役会が存在しないようなもの、とドラッカーは書いている。
日本人は、人の話を聞く態度が特に悪いことが、世界で知られているという。
【多角化とは?】
ようするに複数のジャンルに広がることを言う。
おそらく、みなさんが、誰からも説明してもらえないままイメージするのと同じだろう。
一度に複数のことに手を出すと、当然、ついていけなくなって誰でも混乱し、失敗続きになるだろう。
だから経営者もそうなるわけだ。
【いくつなら手を出していいのか】
適正な規模とも通じるところがあるが、正解は「一つに特化する」である。
痛いは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。
ほんの一部だろうと、二つ目に手を出すのもダメだと言う。
日本の企業が、計画的に進めていて、あれこれ手を出している。
規模も適正ではないので、社員は仕事をするだけで病死する可能性が出てきている。
その状態で何十年も過ごしていて、何が起ころうと変える気が無い。 【多角化しすぎてしまう理由】
一つだけを永遠にやるなんて飽きてしまうからだ。
飽きるということは、集中しきっていないことを意味する。
とはいえ、生身の人間だから、心の底から怒りがわいてくるようになる。
そうならないようにする方法は、求められる強さ以上の強さでこなすことだ。
一気に高速でやると他のことを忘れるようになって、没頭状態になる。
没頭しきると、雑念が消える。
長年の生活で、始めること自体に飽きがきて、怒りがわいてくる場合はどうするか。
同じく、怒りがわいた状態のまま、一気に進める。
どこまでも没頭する。
もちろん、他のことを忘れるようになって、それが怒りを覚える心の部分に到達すると
怒りそのものがおさまるようになる。
さらにもっと忘れるようになって、仕事に没頭すると時間も忘れるようになる。
私の経験上、時間を忘れるようになれば、
働かされるのがイヤという子供じみた被害者意識そのものが抑えられるのがわかった。
このような被害者意識を作らない社会のために『マネジメント』が書かれたので心配しなくてもいい。 【複雑になるからうまくできない】
日本のあれこれ手を出しているやり方は、複雑さを増す。
あとは、イノベーションを目指したり、本当に素晴らしいものを作り出す時
複雑さから逃げることはできなくなる。
計画経済などもってのほかである。
【イノベーションとは何か?】
現代日本で例えると、ビールなどで無数の種類の商品が新発売を繰り返している。
これは、イノベーションのかけらもない。
ある商品の使い方が大幅に変わって、前よりもサービスは、ニーズによりよく答えていたりする。
これもイノベーションではない。
どんなものを作ろうと関係なく、「世の中に可能な限り大きな影響を与えられるもの」をイノベーションという。
イノベーションという用語は、技術用語ではなく、経済や社会用語だそうだ。
だから、日本も世界も、商品の物体をイノベーションと言っているが、
地球規模の巨大な間違いとなるだろう。
テレビで巨大な声でイノベーションを叫んでいるが、もちろん、間違った意味のほうで言っている。
明らかに、作られた商品という物体そのもののことをイノベーションと言っている。
本当は、巨大な影響を与えられないものは、すべて違うのだ。
商品の物体がちょっと種類が違うだけでは、イノベーションの欠片もないのだ。 だから日本の企業が今までに合った商品で
大幅に違う種類を作って、今世紀最大の発明とか言っているのもイノベーションの欠片もない。
商品は、環境に巨大な影響を与えることができるかどうかだ。
【イノベーションにふさわしいのはチーム組織】
イノベーションは、日本でもいいものと思って、うれしそうに連呼しているが
日本のほぼすべての企業のやりかたに反したものである。
ついつい、若者が、この場限りの目立つ事業に興味をもつ。
アニメのように、魔法のような破壊力を持った、突然の変化を好む。
これを、日本のほとんどすべての組織は敵視している。
変化をもたらす人間は、生かしておけないかのようだ。
イノベーションとは「変化」するものである。
さきほどの、商品のパターンがちょっと変わったくらいではダメだ。
大幅に変わって見えても、案外、イノベーションに当たらない商品ばかりなのだ。
なぜなら、イノベーションとは、日本人が大嫌いな「大きな変化」を作り出す。
人がどんなに苦しもうと、伝統や文化を守って同じことをする政府よりも、
体制の破壊をするほうがイノベーションに近い。
そうみると、日本はここ最近、70数年ほど、イノベーションをしたことが無いことになる。 【変化が怖い人へ】
「変化への抵抗」があるのは、理解不足と恐れからくる。
自分がやろうとしていることを徹底的に理解しつくさなければならない。
一度見たから、知ったので、二度と見ない、という人が多いと思う。
そういう人は、全く理解していないのと同じである。
なぜなら、翌日に半分以上忘れ、たった2日で70%以上を忘れてしまうからだ。
【恐れをどうするか】
変化をチャンスととらえると、恐怖は消えるだろう。 【多国籍企業】
多角化と似たことに戻ってしまうが、忘れていた。
多国籍企業をどうするかは、とても難しい。
多角化、多国籍企業、合弁企業、イノベーションは、複雑になる。
日本政府から個人までのシステムは、合弁企業的ではないかと思う。
仲良がいい振りをしたがる。
気持ちがバラバラの個人が、マーベルヒーローズのようにチームを作って集まり
ケンカしながら一つの仕事を成し遂げる。
これが合弁企業のようだ。
多国籍企業は、そこまでバラバラではないかもしれない。
もちろん、外国人、外国の文化、外国の宗教を相手にする。
国際法、独占禁止法など関わってくる。
だから、多国籍企業は政府とのつながりが深いようだ。
複数の国の社員がいるため、違う文化、宗教も考えに入れなければならない。
日本にあるほとんどすべての組織は、合弁企業的で、多国籍企業的なのだ。
日本人以外と仲がいいのだ。 【多国籍企業の問題】
政府とお近づきになれるため、官僚的な性格になりやすいらしい。
だから官僚的にならないようにする、とドラッカーは書く。
また、世界に広がる組織なので、一国内の他の国民から過剰な非難をくらう。
理解できないことをする人間を「変人」と思って、毛嫌いするのは人間の常だ。
(たとえば、経営学のMBAを取得した日本人は、変人でひとくくりにされるらしい。
日本の企業はMBAに反した考えを持っているため、毛嫌いするのだ)
「政府となじみだからと言って、我が国の国家間の重大決定を
たかが一企業が左右して支配している!」
などといわれるらしい。
【多国籍企業の反論】
外国の政治問題を、わが社一つだけの力で変えられる権限を持っているわけがないではないか。
企業は政府より立場が弱いのだ。 【喜びをもって働ける世界を作る】
今、リーダーシップについて良く語られる。
本当にいい経営。
一人一人の心を認めながら働く。
すんなり学習出来て、学習の成果を効果的に生み出す組織形態をつくる。
「人間の気持ちを成果につなげる」
「ひとりひとりの強みが公益を増進させる」この道徳原則がマネジメントの正当性の土台となる。
【人の気持ちを重視した経営】
ドラッカーの『マネジメント』全体は、人の心に無理がない形でマネジメントすることを言う。
人の気持ちをないがしろにする人は、今すぐに辞任すべきだろう。
「人の気持ちを大事にしよう」といえば「ふざけるな」と怒りだす人しか見当たらない。
それはなぜかといえば、人の心理について無知なのだ。 いいリーダーシップと的確なマネジメントで
人の強みを引き出し、達成感をもたらす。
激怒を作っている現状から抜け出そう。
おわり 久しぶりです、リーダーさん。
記憶喪失した男です。
あれからも、がんがん本を読んでいて、とうとう2200冊に到達しました。
最近は、空想科学以外に、哲学も得意分野といえるようになりました。
そして、経済学もちょっと本格的な本を読んでいます。
がんばってください。 記憶さん元気そうでよかった
大変なことになっちゃったね ペン・セタリン『クメール語入門 改訂版』連合出版(2008)
カンボジアの言葉。
カンボジアのことを「クマエ」「クンプチー」という
【東南アジアの言語】
単語の最後
お元気ですか
「ソッ サッバーイ テー」と聞こえるかもしれない
「ソッ(ク)」などと目印をつけるしか方法が無い
(ク)を言うつもりで喉をくっつけたところで止まる
だから息が止まる
普通に息をすると息が詰まるので、あえて息を止めて言うほうが良い
東南アジアはこういう発音ばかりで、呼吸困難になりそうである
(例:タイ語、韓国語)
ソッ(ク) サッ(プ)バーイ テー(ヘ)
発音記号どおりに書くとこうなる。
最後の(ヘ)もほとんどわからないかもしれない
ピタっと止めていうと「ソッ サッバーイ テー」と聞こえる
【独特の文字】
普通にパソコンで書くのは不可能だ。
サンスクリット語(デーヴァナーガリー文字)から変わったと言う。
【語形変化しない】
タイ語も、ベトナム語も語形変化をしない。
そのためか、単語数を多くして補っている。 【読み方は、大きく分けて2種類】
文字そのものの名前は、例えばpなら「ポー」という
tなら「トー」、kなら「コー」、nなら「ノー」なのでわかりやすい。
「c」の反対のような発音記号だけである
文字の種類は上記と、「逆c」の上に「`」をつけた読み方と二種類がある
全ての文字が、かならず二種類セットの読み方が用意されている
普通に読むのが無声子音、「`」つきが有声子音で低い音で読むとあるがよくわからない 【音節末の読み方】
東南アジアの言語の特徴で、音節末用とそれ以外で読み方が変わり、これも二種類になる。
pを普通に読むのと、音節(ほとんどが単語の)末の読み方で違う。
文字表の読み方に「pc: , p」などと書いてある「c」は逆と思ってほしい
通常は「ポー」で、末にきたら「プ」がと読むということ
さっきの「ソッ(ク)」にあった(ク)の文字
【単語の読み方の順番】
文は左から右に読むが、一つの単語はこうなっている。
真ん中の文字「字母」の下に「脚字」が二つまで縦に並ぶ
母音記号が「字母」の左、上、右について、次の単語に移る
一つの単語を、この順番に読むようである
真ん中の字母、下、左、上、右、右にある次の単語。
下からくるっと時計回りして右へ行くように見るようだ
【東南アジアの言語には、回転するように見るものが多い】 【語順】
おそらく、英語の語順意識でほぼ構わない。
【文の終わり「。」に当たる記号】
左上で「゜」を下から回して反時計回り
下向きの浅い半円を大きめに右上まで書く、
右上に来たら下にまっすぐ線を引くので右上はとがっている
何というのかわからないので、無理やり言葉で説明してみた
「Ч」の左上が「゜」になっていて、もっと上の方で横に行って、縦線をひく
これをパソコンでは書けないかもしれない 【単語:読み方をカタカナとアルファベットで区別してみる】
適当に単語を選んで紹介する
「チー」だか「チエ」だか読む単語が頻繁に出てくる
cie`「〜である」という意味
上に「`」がつくとき、アルファベットの次に書いておくことにする
これがつくかつかないかしかないので。
【カンボジア】
コンプチエだか、コンプチーだか読む
khmaeクマエ「カンボジア、カンボジア人、クメール、クメール人」
【すこしお絵描きを試してみた】
文の最後「゜」にあたる記号が書けるか試してみた
お絵描きすると、この文章と違って表示されない場合がある
だからあまり使わない
【単語と文を適当に紹介。読み方をイメージするため】
「こんにちは」
co`m rie`p suo 。
。は「。」に当たる記号。お絵描きで紹介した記号がつく
「o`」は記号がついているが「オ」でよい
他の全て「`」があってもそのまま読んでよい
有声無声の区別だが、私にはよくわかっていない
はい、もう一度アルファベットを読んでみましょう
チョム リエッ スオ。「こんにちは」 chkaeチカエ「犬」
hは息を吐く
phka:「花」
:は伸ばす。プhカー
srei「女性」
ko:n srei「娘」
so:m「どうか〜してください」「お願いします」
m?ho:p「料理」
?は「アッァッァ」というときの喉がしまるところ
言ってみようムッホーッ(プ)
(プ)で唇は閉じたまま。ムッホーッ。息が詰まりますね
s?a:t「美しい」スッアーッ(ト)
(ト)で舌をつけたまま止める。はい、ス アーッ
sしかないので空気が通るだけ。ス アーッ
sva:「猿」
sva:i「マンゴー」
「イ」以外は同じつづり
baoc「むしる、草むしりする」
baok「叩き倒す、騙す」
(チ)と(ク)は言おうとしてつけたまま。
バオッ(チ)とバオッ(ク)
バオッ、バオッ 他にも、単語の読み方が全く同じで、文字が違うのもある
同じ読み方の文字が何個かあるからだ。
【複数】
たまたま見つけられたので複数の言い方を紹介
roapロアッ
go` roap kba:i「何頭もの牛」
おそらくkba:iは「いくつもの」という意味だろう
通常、他の言語は複数形を使うが、クメール語は変化しない
複数だと示す記号のような単語がある。
これが東南アジアの、語形変化がない言語の特徴だ
文字が絵のようになっていて、もともと絵だった。
もしくは、現実にあるものを簡単に描写したことから始まる
手で書かなければいけない部分をどんどん減らして、
だいたい一筆書きができるようにしてあるのだ
もともと絵や実物だったため、表意文字がもともと少なかった。 この『クメール語入門』によると、表音文字が増えたのは新しい時代のことだ。
表意文字だと画数が多くなるし、煩雑なので難しく感じる。
表意文字で、一音と対応するほうが簡単で読みやすくていいんじゃないか、という意見があると言う。
だが著者は絵のような表意文字が、今後も生き残ってほしいと書いている。
【プノンペン】
著者セン・ペタリンはプノンペンの人である。
phnom「山」ではないかと思う。
如何にも地名になりそうな言葉だ。
ペンは何か、みつけられなかった。
他にも、stha:ni:だったか言う単語が気になった。
スターニー「町」である。
ヒンドゥスターニー
トゥルクメニスタンなどは経由したのだろうか
このスタンは「町」「国」のような意味である
アフガニスタン、カザフスタンなど
カンボジアは
コウケンテツさんの番組を見るとなんとなく気になる
おわり >>25の最後でミスしているので訂正
もともと表音文字が少なかった NHKラジオテキスト語学シリーズ
『アンコール まいにちドイツ語』NHK出版
2013年度4月〜9月・10月〜3月
ドイツ語に慣らす本、中古で良いのがなかったから買った。
でかい本と思ったが603ページもあった。
こんなにいらんやろ 他にNHKテキストで薄いのはあった。
放送日の順番がバラバラにしてあって、なんとなく見る気が起きなかった。
なんとなく音読したかったからやってみた。
たぶん全部音読したはず
なんとか、複数の言語で、ちょっとは速く読めるようになってきた
簡単にやりかたをいうと
喉はしめない。疲れるから。リラックスして。
喉、顎、顎の下なんか力が入りやすいところを完全に力を抜くつもりで。
そのまま、唇、下を正確に動かす。
ゆっくりよりも、滑らかに早く動かそうとするほうがやりやすい。
日本人はテレビの影響で、ゆっくりとしかしゃべらないから
全ての発音が顎に力が入る
ゆっくりと、全部意識してコントロールしようとするほうが、余計に力が入る
ある程度、口の形に任せるほうが良い
口の形に逆らわないままでなめらかに速くいう意識で
うまくいえないけど 外国語の発音は、日本語と違って
顎の鰓(えら)のほうまで大きく、膨らませるつもりで思いっきりあける。
口の中に、ボールか何か、丸いものが入っているイメージで
丸く、大きく空洞を開ける。
だから鰓のほう、歯茎の下のほうがスース―するのがいい。
のどちんこの奥も、思いっきり開ける、
口を大きく開ける、
ほっぺたをふくらませるように空洞をできるだけ大きく。
そうすると、大きく開ける感覚がつかめると思う
口全体に空気が入るから、とても涼しい
さらに、唇を速く正確に動かす時に、すこし横に引く「いー」とやる。
普段よりも横に「いー」と広げたままでしゃべってみるといい。
呼吸がとんでもなく楽になるはずだ 日本でも「口角上げて」といっているやつ。
口角上げて、笑顔のようになるのが恥ずかしい人は
ただ横にちょっと広げるといい。
唇が乾燥してくっつくようなことが無いため、呼吸が楽になる。
歯茎と唇の隙間があいて、スースーしているのがいい。
のどちんこ周辺あたりもボールが入っているように、大きく丸く、おもいっきり開ける。
いちどは、口全体を大きく開けるといい。
日本人は自分への自信のなさと、声が小さくなければいけないため
口全体が閉じたまま、あっちこっちがくっついたまましゃべるから、声がこもる
ハリウッド映画、ニュースなどで外国人もこもった声に聞こえる。
これは、私たちが外国語を聞きなれていないだけ。
日本人と話し方が全く違うから、日本人は聞き取れない。
大きく口を開けて「あー」というだけでも日本人と違う 日本人ははっきり発音してはいけないため、どうしても外国語が聞き取れない。
アニメ声優でも、どっちとも聞こえるような、あいまいな発音をわざとしている
そういうものだと思っているはず
日本では、日本語ですら、正確な発音をしたことが無い人のほうが多い
それで「滑舌が良い」などと誇っている
これでは、外国語発音はできるようにならない さて、ドイツ語テキスト、やっと音読し終わった。
前半は、著者が作ったストーリーに沿って、セリフを載せ、文法解説をする。
このストーリーはドイツの映画を参考にしたらしい。
ドイツ人から、その映画そっくりだと評判だとか。
著者がつくったストーリーを一通り見ると、その映画の雰囲気がわかるようになっているようだ。
ゲーテの『東西詩集』にある『Gonko biloba』というものを参考にしたらしい。
後半は、ラジオで日本とのつながりがあるドイツ人をゲストに呼ぶ。
パーソナリティーがその人たちにインタビューする。
さまざまな職業の人が出てくる。 日本の良いところ、よくないところも聞いていた。
日本のいいところは、全体的にかっちりと決められていることのようだ。
たしかに、電車のダイヤなどはあり得ないほど正確だ。
だが、その、しっかり決まっていること自体が、悪いところでもある。
JRは何年か前に尼崎で列車事故を起こし、かなり騒がれた。
頭が固い鉄道会社も、さすがに少しは変えざるを得ないほどの、大失敗だったわけだ。
これでも反省の色が無いほど、日本は、ものごとを型にはめてしまうのだ。
ドイツ人たちが日本の悪いところをどう思うか、少し紹介して終わる。 JRの列車事故って重複していた(笑)
脱線事故だった。マンションにぶつかり二つ折りになって、ぺしゃんこになった
できるだけ大きな被害になったかのような状況であった。
さて、ドイツ人はこう思う。
【ビール職人】
日本では職業的な知識がなくなりつつあります。
「名人」といったマイスターがなくなりつつあり、後継者がほとんど育たない。
日本はアイデンティティーを失っていくのではと思います。
(日本人は、説明を毛嫌いする。
よく「見て盗め」と職人が弟子を教えない。
だがそれで盗めていないということだ
どんなに説明できないと自負したところで、伝えられないのでは意味がない
職人は、そこをよく考えて、伝える方法を模索しなければならない
言葉にできないなどといっている場合ではない) 【美術、写真家】(一人のドイツ人がこの二つをやっている)
ヨーロッパでは、合掌的な話し方というものがあって、それを聞くと
残念ながら鳥肌が立ちます。良い意味ではなく。
(私、リーダーがいつも言っていること。
日本人は変な話し方。ゆっくり過ぎて不自然すぎる。
一言ずつ、何秒も間を開ける。大河ドラマ含め、ほとんどすべての番組で
大声で喚き散らすだけで、中身がない。
中身が無いのを越えの表情でごまかしている。
一文字声を出すたびに、うんうんうなずいてしゃべる) 【美術、写真家】(上と同じ人)
日本にいると、全粒粉のパンはどこにあるのだろうと思います。
また、民主的な議論のあり方はどこにあるのだろうと。
これはドイツではマスコミからもずっと強く感じられ、
さまざまな意見がありますからね。
(全粒粉のパンがないのは見つからないだけだろうか(笑)
日本のおかしいところは、ドイツのマスコミもおかしいというくらい。
日本は議論を許さない。
さっき、職人が説明しないと言ったが、これも当てはまる。
日本では、何かに詳しいと言ってはならない風潮がある
そのため、アニメオタクが見下されるのではないかと思う) 何かに詳しいと言ってはいけない。
映画で使われた知識、マンガなどで使われた知識を語ってはならない。
感想も言わせない。
バイク乗り、ギターを弾く人たちを変態という風潮があるらしい。
これも、一つのことに詳しいことが、周りにとっては何か気に入らないのだろう。
趣味の話をしてはいけない風潮がある。
こういうとき、良くあるパターンは
「知らないから話してほしくない」という気持ちだ。
わからないことをいうと、腹が立って、相手を嫌悪するようになる。
日本社会は、これに効率が良いように作られている。
つまり、日本では無知が強いのだ。
そう思うと、怒鳴りつけたり、二人きりになって脅したりするしか
思いつかない人が多いのもわかる気がする。
これが、日本のおかしい言動の大部分を占めているのではないかと思っている。 それでは、ドイツ語学習テキストを読み終わった。
分厚いから時間がかかった。
日本人が文章を書くとめちゃくちゃだ。
もう、日本人が書いた外国語を見たくない。
おわり 川口健一著『エクスプレス ベトナム語』白水社(1991.10.25)
前も書いたので、できるだけ簡単に書く。
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1523030859/548-554
全20課。
最後に「ベトナム語の特徴」がある。
【特徴】
1.声調
2.1音節語がふつう
3.語形変化しない
【虚詞】
語形変化がないため、虚詞というものがある。
1音節語一つで意味がある単語と、意味を持たない単語がある。
意味を持たないのを「虚詞」という。
語形変化しなければ単語事態に文法的要素が無い。
だから文法的要素だけの単語がでてくる。
【語順】
だから、語順で意味が決まる
【そして】
「ベトナム語の特徴」で、あとほんのちょっと解説が入る。
だいたいこんな感じ
【互換性】
他の語形変化しない言語を理解する手助けになることが書かれていると思う。
参考までに。
おわり 小笠原健司
V.R.クマラニングルム『一冊目のインドネシア語』東洋書店(2013)
【文字】
ほぼ完全にアルファベット。
【´e】
eの上に「´」がつくが、パソコンは環境依存文字のため書けない。
上記のように表記しておく。
これしかないので後はすべてアルファベット。
若干の読みかたの違いがあるだけ。
必ず「エ」と読む。
【e】
「エ」ではなく発音記号で「逆さまe」の発音。
「オ」とも「ウ」とも「ア」とも聞こえるあいまいなアレ。
【単語の最後に子音が来ると】
たとえばanakという単語がある。「アナッk」
クの音を出さない。くっつけたままでとめる。アナッ anak
意味「子供」
韓国語、ベトナム語、タイ語、クメール語と同じ。
読み方はこれだけ。 一つだけ読み方が抜けた。
【単語最後のh】
最後にhがつくと「ah、アハ」と思っていいが、実際には言ってないように聞こえる。
聞こえても構わないなら言えば良いし、聞こえない方が自然なら言わなくてもいい?
【単語の特徴】
読み方は易しいが、どの国でも見当たらないリズムでとても読みにくい。
おそらくフィリピンあたりのリズムだろう。
【単語は繰り返しが多い】
繰り返しは子どもでも好きそうだ。
だが子供向けの幼児語ではない。
政府だろうと使う、普通の言葉だ。
laki-laki「男」(らき☆すた、どこかにないだろうか)
Saudara-saudari[sekalian]目下、同年代の男女複数に向かって「君たち」
[sekalian]のカッコは省いてもいいことを示す
Chacha「チャチャ」人名。この本に出ていた。インドネシアによくある名前だろう
【繰り返しの例、もう少し】
tutup:トゥトゥッ:閉まる、閉める
menutup:ムヌトゥッ:閉める
(何か付け加えられると、読みやすくするためだろうか、
変わることが非常に多い。tutup→nutup)
Adikku lupa menutup celananya.
弟はズボンのチャックを閉めるのを忘れた。
アルファベットをそのまま読めばいい。
celananya「チェラナニャ」と読む dada「胸」、gigi「歯」、bibir「唇」、anak-anakan「ままごと」
sewaktu-waktu「時に応じて」、tanda tangan「署名」
pelan-pelan「ゆっくりと」
membagi-bagikan「〜を分配してあげる」
【リズムの特徴:ng[g]が多い】
berapa minggu「何週間」、manggis「マンゴスチン」
ngomong-ngomong/omong-omong「ところで」
datang「来る」
Saya [datang] dari pulau Bali.私はバリ島から来ました
(dari「から」なので、datang「来る」を省略することもある)
Selamat siang.「こんにちは」
インドネシア語は「g」が非常に多い
mengunggah「〜をアップロードする」 【独特の単語】
【アジアの国々の影響がうかがえる】
どこを見ても見慣れない。
だが、アジアの影響を受けているらしい。
Saya anbbota klub jodo.
私は柔道クラブのメンバーです
Mesir「エジプト」(アラビア語でミスル)
Gong xi fa cai.:ゴン シー ファ チャイ「中国の旧正月おめでとうございます」恭喜發財
英語の影響もある
make up:メイッ アッ:化粧のメイクアップ
E-mail address adikku 007@a-b-c.jp
「メールアドレスの読み方」
kosong kosong tujuh a-k´eong a dash b´e underscore c´e dot c´e p´e
コソン コソン トゥジュ(h) ア ケオン ウンドゥルスコール チェー ドッ チェー ペー
k´eongは「キョン」と聞こえる
【日本語にありそうな音】
bulajar:ブラジャール「〜を学ぶ」
bulajar ブラジャー:ブラジャーを学ぶ?
toko「店」床屋を想像したから
besi「鉄」と理解すべし、
lampu「ランプ」
sampai「〜まで」sampai stasiun「駅まで」参拝
kiri「左」にハンドルを切り kaki「足」で書きます
panti:パンティ「家」
【接辞-nya】
文法上でつくので「ニャ」とよく出てくるにゃ。
Tinggalnya di mana?お住まいはどこですか?
tinggalnyaの意味は「住んでいる」ニャ
【接辞】
接辞-単語-接辞
というように、文法上、頭、ないしは、後ろにつく。
さまざまな意味が有り、マスターできれば表現が豊かになる。
この『一冊目のインドネシア語』には、最初に「主要接辞一覧」があるので、
一通りの意味が書いてある。
【〜は〜が:二重主語】
「彼は足が短い」などというときに接辞がつくのは、見かけない文法だと思う
Dia kakinya p´end´ek.ディア カキニャ ペンデッ この本で出番が多かったものだけ紹介する
ber-
berpengalaman:ブルプンガラマン「e」はエではない「経験を持つ」
ber-は他にも意味が有る
ber-kan
berrisikan〜が入っている、上記ber-の意味の一つ
berdasaukan〜に基づく、ber-+前置詞に相当する
-kanがつくものは多い
me-kan
membagunkan〜をse起こす、転化「〜を〜の状態にする」
me-がつくものも多い
se-nya
sebaiknya好ましいことには、副詞
「baik」良い、について副詞になった
これだけでも表現が増えるニャ
スバニャッニャと読む
クは聞こえない。 さっきのsebaiknya
〜したほうがいい
という意味もあった
【この本の特徴】
かなりレベルが高いところまで学べるらしい。
社会問題の表現もいきなり収録してあるが、これはレベルに関係なく
外国語学習書に載せるべきだろう。
易しさを重視してどこかのレベルで止めると、初心者からそこまでしか理解しようがないからだ。
難しすぎることは、経験でわかるようにするために、
中級の高いほうのレベルくらいまで載せておくべきだろう。
その根拠は、基本的に、初心者から中級でほとんど進めなくなるからだ。
(暗記中心にすれば)
そして、中級から上級になると、今までの数倍の労力が必要になる。
だから中級の中よりも上くらいは、初心者から見せていいだろう。
最初の一回は、挫折しそうなくらい分量が多いはずだ。
初心者から学びたいなら、こうすればいいと思われる。
まずは、最初の一回を一通り読もうとするしかない。
すると、分量が多すぎて挫折するだろう。
だから、一通り、順番に読むことにこだわらず、興味が赴くままに、好きな個所を読めばいい。
そのほうが、初心者でも記憶に残せるからだ。
どこだろうと、好きなところをいきなり見るようにしたほうが良いだろう。
それと同時に、一通り読むのを好きなペースで進める。
最初の一回の通読と、好きなところを見るのを並行するのだ。 初心者は、順番に進めてわからないところが出てくるかもしれない。
そこで止まり、いつまでたってもわからない時は挫折しやすい。
だから、通読と並行して、好きなところを見ればいいだろう。
それは、中級だろうと、本の最後だろうと、どこでも構わない。
初心者だろうと、好きなところを気が向いたときに見るほうが理解しやすいからだ。
それはなぜかといえば、順番に理解するケースがほとんどないためだ。
途中でわからなくなって、別のところに興味を持ったら、遠慮せずにそこを見よう。
難しいはずなのに、案外理解するはずだ。
また気が向いたら、通読が止まったところを見ればいい。
気が付けばわかるようになっている。
レベルが低くて、理解しづらい人でも、そうやれば、高レベルの勉強もやりやすくなる。
つまり、いきなり先を見てしまって、その説明を理解する知識に戻るつもりで
通読が止まったところに戻れたら、それでいいのだ。
順番に進めようとするから、挫折する。
だから、専門家がいくら、順番に学ぶ方法を提示したところで
生徒に合わなければ、その方法を作った努力は無駄になる。 それでは、社会問題の表現を紹介する。
「私たちは、地球温暖化について考えねばならない」
◆memikirkan〜について考える(←pikir考える)◆global地球◆pemanasan温暖化
Kita harus memikirkan pemanasan global.
「閣僚たちは、自らの身を潔白にしておかねばならない」
◆menteri大臣◆lingkungan環境◆diri sendiri自分自身
Para menteri harus memberisihkan lingkungan diri sendiri.
「イスラム教徒はお酒を飲んではいけません」
Orang Islam tidak bol´eh minum alkohol.
他の表現
「東京からシンガポールへは、飛行機で7時間かかります」
◆7 tujuh◆dengan〜で「手段」◆pesawat飛行機
Dari Tokyo ke Singapura makan 7 jam dengan pesawat.
それでは
おわり 間違いがあるので訂正しておく
◆celananya「チェラナニャ」と読む
↓
チュラナニャ
◆sebaiknyaの読み方をニャニャっと間違えた
スバイッニャ ジャーナリスト 池上彰 作家 佐藤優
『僕らが毎日やっている 最強の読み方』東洋経済新報社(2016)
Knowlwdge & Liberal Arts
私はかつて、一つだけ週刊誌の記事を読んだことがある。
マスコミに興味があって、本を読んで気になったから、週刊誌とはどんなものかと思った。
ためしに読んでみたら罵詈雑言で書いていたので、読まなくなった。
そして今に至る。
そんなことも平気で書くマスコミの出版物、ネット情報をどうやって読み解くか。
本の読み方、勉強方法も紹介する。
池上彰氏は膨大な文章を毎日読んでいる。
団塊ジュニア世代くらいだろうか、今の私たちのかなり自由な考え方の
始まりぐらいの世代かと思う。
団塊と団塊に反する考え方の両方を持った人ではないだろうか。
佐藤優氏は元在ロシア外務省、外交官だった人らしい。
池上氏より10年遅い世代の人だが、若くしてアメリカ、ロシアへ行ったそうだ。
1986年くらいのバブル期くらいに日本に戻って、日本がどうなっているかはあまり知らなかった。
情報では知っていただろうが、この頃に日本に戻ったから空気は知らなかった。 口絵、池上氏の研究室紹介、佐藤氏の仕事場紹介。
前書きは池上彰氏。
雑誌、新聞、週刊誌、ネット、書籍、勉強法と語る。
一つは無しが終わるごとに「僕らの極意70」までまとめてある。
最後にこの極意だけ並べている。
あとがき、佐藤優氏。 新聞や雑誌には特徴があるため、特徴を理解しながら活用する。
この本は東洋経済新報社が発行しているから、かなりほめている。
世の中を「知る」には新聞、世の中を「理解する」には書籍という。
基礎知識があると、ニュースで言っていることの半分は解るようになるという。
勉強は自分なりに続けよう。
何も知らずにニュースなどを見て考えても大したことが思いつかないのは
知識が足りないんだそうだ。
知識があっても何も思いつかない人を「論理的思考が欠けている」というわけだ。
そういう人が政府にいるから、変なことばかりをするらしい。
政府にいて情報が足りないままで済ませる可能性は低いからだ。
情報がありながら、間違ったことが平気でできるのは、考えていないということだ。
日本政府は考えないで日本の面倒を見ていることになるのだ。 実は、考える力があると、おかしな情報に左右されにくくなるという。
知識があっても何も思いつかないのは、言葉の意味を暗記して思い出すだけで終わっているからだ。
バラバラの知識を思い出しても、何も考えられない人はいると思う。
その理由は、バラバラの知識をつないで、整理するのに考えるしかないからだ。
全部指示して、聞いてもらうだけで済ませていると、
災害時に自分で何もしない国になるというわけだ。
国民が自分で何もしない理由は単純だ。
「言われたことだけをやれ」と命令されているからだ。 池上彰氏は膨大な情報を毎日見ている。
佐藤優氏はもっと膨大な情報を見ている印象を受けた。
佐島氏が知る限り、週刊誌について最初にわかりやすく解説した人は池上氏という。
会社によって特徴が違う。
状況次第で、取材現場でさまざまなことが起きているのを、二人とも知っている。
その話を読むとなかなか興味深かった。
新聞社の考え方を知るには「社説」と「コラム欄」を見ればいい。
他の普通の記事には、この本の取材当時にはかなり減って分かりにくいという。
現在(2020年)も同じなのだろうか。
簡単に済ませたい人は「社説」と「コラム欄」を読もう。
新聞社で他には、当時は海外ニュースの記事が減ったという。
大事件が無い時は、どの新聞社も海外ニュースをほとんど報道しなくなる。
2020年になろうともそれは変わらない気がする。
ちょっと問題がおさまれば、日本国内の知ってもしょうがないようなことしか言わなくなる。
ある本を読んだときに見た言葉を今も覚えている。
「殺人事件が報道されないときは、世界で何も起きていない時」
世界情勢を考えるなら、日本国内の、つまらない理由での殺人事件を重要視はしない。
平和でよほどヒマだから、退屈しのぎに殺伐としたものを求める。
あと、単純に海外ニュースが売れないから報道しない。
それは、日本人の関心が内向きになって、他のことに一切関心が無いからだ。
その理由は、知識が無くて、何も思いつかない。
自分の生活から遠い世界の話は、思考力が無ければ興味を持ちようがないのだ。 だから、海外でも殺人事件や、知識のニュース、サイエンス
一つ一つバラバラに発生した、無数のできごとは半分、楽しみとして知ることが出来る。
だから、住む世界が違っても、純粋に楽しんでみることが出来る。
また、自分の生活にある小さな知識を、ちょっとおもしろい角度で書けばほぼ安定して売れそうだ。
だから、一発ネタ、一瞬で終わるような小ネタは、少しあると興味を持ちやすい。
小ネタで思い出したが、ネットのヤフーニュースのこと。
ヤフーホームページのど真ん中に、四角の中にニュースが縦に並んでいる。
ここにニュース見だしが8項目並べてある。
昔は、政治などの堅いニュースが6、下の2つがエンタメ性のある軽いニュースだという。
それが、取材当時は「4:4」になっていたという。
これも、読者の知能の低下を示すのではないだろうか。
私も気になって昨日、ヤフーを見てみたら「堅い4、エンタメ4」となっていた。
(2020/05/25) 【意外!ネットはハイレベルだった!?】
みなさんは想像つくと思うが、ネット情報は信憑性が無い情報が多い。
個人が思ったことを即座に書いて表示される。
ということは、マスコミ的にみると、情報の信頼性を検査しないで公表することになる。
完璧な言葉だけで会話する人間など存在しない。
だが、気軽に話しても、そこそこまとまった内容を言えるようにはなろう。
普段から考えて、物事を整理して過ごしていると、
意味をなさない言葉を発する場面も変わってくる。
意味をなさない言葉、擬音語のような、誰にも読み取れないような言葉がある。
現状、ネットでそんな意味のない言葉を聞きたくないと思う人は多いと思う。
それはなぜかと言えば、心を直接表現しやすい言葉だと知らないからだ。
アニメを見たらわかる。
意味をなさない言葉のほうが半分近くを占めており、
全く考えなくても良いように、簡単すぎる言葉だけを使うので、誤解が多い。
その理由は、セリフにならない部分を、声や顔、行動、映像で表現しているからだ。
そして、セリフにならない表現をあまりできていないのだ。
だから、アニメになるととたんに、内容が薄くなるのだ。
話がそれた。
ネット情報は自分で選ばなければならない。
「信憑性のあることだけ言え」と他人に強要しないほうが良い。
信憑性のあることがもっとも少ないのがネットだ。 【ネットほど効率が悪いメディアはない!】
自分で選ぶしかないため、自分がそこそこ知識を持っていて、
そこそこ考えられなければ、情報の間違いに気づくことが出来ない。
これ以上効率が悪いものはない
【英語で読むかどうか】
英語学習論は何度か書いたし、『僕らが毎日やっている 最強の読み方』にもあるから省く。
どの出版物を読めばいいか。
【フィナンシャル・タイムズ】
池上氏が読んでいる。
中学校の英語力でも読めるという。
ちなみに池上氏は『タイム』も読んでいる。
【ウォール・ストリート・ジャーナル日本版】
私が今のところ思う。
外国の書籍、新聞で易しいものを見つけようとするのは時間の無駄かもしれない。
だから無理しないで、日本版を読めばいい。
日本支社とかがあるので、外国版とは編集が違うらしい。
だが内容の質まではそんなに変わらないという。
【私が思うCNN.j】
私はたまたまCNN日本版見るようになった。
今のところ、トップに並ぶニュースにいいものは少ない。
日本ヤフーホームページのど真ん中に写真があるんだが、
そこを見ると白紙同然のことしか書いてないが、それと似ている。
ヤフーのほうが薄っぺらだ
ヤフーホームページのど真ん中にいつも写真があるんだが、
どうやら風景を愛でているだけのようだ
悪い事件の風景を愛でているように見えて、なんとなくいただけない
対岸の火事と思って「どうでもいい」と思っているようにも見える 【英語で読むときにどうしても避けられない:文章レベル】
書籍も雑誌も、英語レベルで考えるとほとんど読めなくなる。
どうしても、レベルに合った英文を読むのが最も学びやすい。
だが、レベルにあった文章を見つけること自体に苦労する。
ペンギンブックスとか、優しい英語にしてランキングを表示しているサービスがある。
だが、私はこれに全く興味がわかない。
なぜなら、日本人が書いた英文は確実に「直訳英語」だからだ。
日本人は日本語も自由に操れない人もいるのに、先に英語を学んでいるのだ。
(在日はあてはまらない。
在日は逆で、英語が通じないから話したくても話せないのだ。
だから英語以外の言語で離すことは日本では不可能に近い) 英語で読みたい人は、興味がある内容についての本、雑誌をいきなり読もう。
英文で読んで、苦労して内容を無意識に感じられる。
(感情がでてきて面白いと思うが、自分で考えられない程度)
これで済ますと、実は、内容が頭に入って、英文が一切頭に残らない。
私はこれで徒労感を覚えた
だから、好きな内容の本がどんなに難しくても気にしないで、
考えながら覚えこむようにするといいだろう。
暗記するんだが、意味も忘れて文字を暗記するのだけはいけない。
それが学校のやり方だからだ。
ちゃんと覚えておきたいので、なんでそういう訳ができたか
考えながら、繰り返し読んで覚えこもう。
繰り返し読むたびに考えるのだ。
これで、スペル、文法、こうなった理由まで覚えられる。
そうすると、ついさっきまで知らなかった言葉を、頭の中だけで反復できる。
これだけ英語について書いておく。 【勉強は、学校の生徒向けのテキストで】
歴史を学ぶ。
「日本史A」「世界史A」がいいという。
「日本史B」「世界史B」は分量を増やそうとして、単語リストになっている。
内容が同じでも、レベルが高くなると説明がなくなり、名前の羅列になる。
これでは、歴史単語集で、英単語集と変わらない。
読み物としては「A」のほうがいい。
大人になって「もう忘れちゃったから」とか思うだろう。
しかし、子供の時と違って、経験がある。
もういちど、興味あるところだけでも読んでみよう。
学生の時では気づけなかったことに(簡単に)気づくはずだ。
大人になってからの経験で思いつくことが増えているので
学生の時よりは数倍、理解しやすいはずだ。
しかも、信用できる知識がついて効率がいい。
数学など、他の教科も、興味あるところだけでもいいから
テキストをためしに読んでみよう。
私の場合は、小学生の国語をためしに見てみた。
小学2年までが、同じ言葉の連呼だけのテキストになっていた。
できるだけ「全く同じ言葉」を使ってあげていた。
全く同じ言葉しか言えない人は、小学2年生レベルのことしか言っていないということだ。
この何がいけないかというと、語彙数が増えないからだ。 本来、文章は同じことを言わないように書くもの。
同じ内容でも、違う言葉で言う工夫をする。
だから、外国人の英語はほんとうにいろんな言い方をしているのだ。
それを日本人が訳すると、全部同じ日本語になってしまっている。
日本だけが、全く同じ言葉だけで過ごしている。
しかも、ほとんどのテレビが、喚き散らすだけで過ごしている。
論理性と記憶がないように編集されている。
まるで、動物の咆哮しかないように見える。
上記のように「。」のたびに改行しているようでは本が読めないだろう。 【書籍】
実は、説明もなく、いきなりニュースやアニメで話が始まる。
オープニングで背景などの説明はある。
それも難しくて理解に苦労しないだろうか。
あなたに知識が無いのだ。
実は、エンタメなどで、雑談、説明もなく楽しんでいるのに参加するのは
全部知っているのが前提なのだ。
人間と会話する時は「全部知るまで話しかけるな」と言われるくらい、知識が求められる。
「全部知るまで一言も話さない」というのは、実現不可能だが。
ようするに、話しかけられた人が都合がいいことを知って置けと、勝手なことを言っているのだ。
しかし、ある程度知識がないと、アニメなどの最初の説明も理解できないことになる。
だから本を読むわけだ。
そのように、できるだけ確かな情報を得たいではないか。
だから、「ウィキペディア」なんて話にもならないかもしれない。
池上氏、佐藤氏は、見たことがあっても参考にしない。
それどころか、どこがどう間違っている鎌で理解している。
「ウィキペディア」なんか話にならないのかもしれない。 ちなみに、
私はこう思う。「ウィキペディア」の文章は、
あなたが人に教えてと聞いたときに、うろ覚えで教えてくれる。
そのレベルだと思っている。
かなり前に外国人の言葉だが「ウィキペディアは参考にしません」と初めて聞いて
その時からずっと、ウィキペディアは本当に信用ならないか、気にしていた。
それでもウィキペディアを見るのは、私はそのレベルも知らないからだ。
ウィキペディアは詳しい人同士が作ればよく、
可能な限り間違いがない人が最終的に判断し、表示すればいいんじゃないかと思う。
もしそうしていたとしても、うろ覚えで時々間違う程度のことが書かれているということだ。
このように、実際と想像を見比べるわけだ。
確かなことは解らないから、自分のダメージが無いように工夫して行動するのだ。
佐藤氏、池上氏も各メディアを見る時と、見ない時は常に判断している。 【信憑性のない情報とのお付き合い】
聞きたくないから言うな、見せるなということは考えないほうが良い。
それをやっているのがネット検索だが、視野と興味を広げられない。
本当にいろいろわかる人は、視野と興味がとんでもなく広い。
一人の人間が、複数の知識を持っている。
どこがどうつながるかわからない。
ノイズだからといって、聞かなくていいという判断は間違っているということだ。
いま興味あることと関係ないと、絶対に聞かないようにする人がいる。
聞きたいことだけ待ち続け、他のことを話す人は排除しようと企む。
ネットではそういう人が多すぎる 興味と視野を広げるポイント。
軍事マニアなど、一つの知識しかない人が多い。
ついつい、軍事情報だけ見てしまって、時間が過ぎてしまう。
他のことを見るタイミングがわからない。
そういうときは、今すぐ知らなくてもいい情報を見極めよう。
すると、少し時間が空くだろう。
隙間時間で、知らないことを見てみるのだ。
私は学校英語にうんざりしていたので、第二言語を見たくなった。
なんとなくスペイン語を選んだ。
私が初めて英語以外を見たのはこの時だ。
気が付けば、薄い文法書だが一通り読んだ。
英語にない感覚があって、新鮮だった。
それからかなりあとだが、第3外国語を見た。
4番目か5番目くらいがロシア語だろうか。
単語が増え、文法を理解すると、簡単な表現を正しく自分で作れるようになる。
ロシア語は「一冊の本」というだけでも変化させなければならない。
たった二つの単語の文法、書き方、変化のさせ方を知ったらできる。
そんな小さな知識を蓄えて、後で好きなようにつなぐ。 軍事マニアの知識だってそうしているのだ。
ただ、すぐにできるか、ちょっと考えてできるかの違いにすぎない。
ジャンルによって、理解に必要な知力が微妙に違っている。
あと、あなたが何が得意で、何が苦手かによって、習得速度が違う。
難しいからできないのではない。
難しくても考えられさえすればできるのだ。
語学は特に学びにくいと思うが、外国語で何を語りたいかを考えるといい。
私はロシア語に興味を持ち、ちょっとずつ見ていたら
いつしか、簡単なことだけは自分で作れるようにもなってきた。
「一冊の本は」なら「アドナー・クニーガ」となる。
ロシア語だけかどうか知らないが、初めて知ったことで、こんなのがある。
「一冊の本は」で「アドヌー・クニーグ」ということもある。
無人称文というもので、「これは」というと「対格」になる。
「風が吹いている」は、人称文でも無人称文でも言えるという。
日本語に例えると「主語」を外して言うのに近いかもしれない。
だがロシア語では無人称文で主語があるようにも見える。
理屈をよく考えないと、なんでそうなるのかわからないのだ。
「ロシア語は変化が多い」で有名らしいが、そのように
細かい状況を、かなり文字に表現できるということだ。
考える癖をつければ、ほとんどなんでもできるはずだ。
慣れれば、考えた結果が記憶に残りやすくなる。 そういうことで、あとこれだけで最後にしよう。
佐藤優氏、池上彰氏の本の技法自体は真新しいものではない。
ガラケー、タブレットなどもある。
使う理由、どのように使うかが面白い。
具体的な技法に触れず、ここでちょっと考えを書こうとしたら長くなった。
この本を読めば、どこを意識して、どこを考えなくていいかがわかると思う。
私がネットで見かける人は、可能性を増やす人だけだ。
可能性を減らして「これとこれのどちらかだ」というところまで考える人がいない。
1.できるだけ可能性を絞るようにしよう。
2.そして、想像してみよう。
物や人がどのように動いて、この事件が起きたのか。
言葉がどんなに混乱しても、真相は、物や人がある状態で動いたからに過ぎない。
真相はかならず、物や人がある動きをしたということだ。
そういう結果にならないなら、あなたの考えのどこかが間違っている、と思う。
それでありのままに出てきた結論なら
UFOだろうと神だろうとそれが真相ということだ。
「常識で理解できることだけが真相ではない」ことだけは覚えておこう。
常識的でなくても、それが真相なら認められるのが、本当の知力だと思っている。
おわり 茂木弘道(もてき・ひろみち)『戦争を仕掛けた中国になぜ謝らなければいけないのだ!
-「日中戦争」は中国が起こした-』自由者ブックレット3(2015)
本屋でたまたまこの本をみつけ、気まぐれで手に取った。
日中戦争という言葉の使い方に、具体性がないように感じていた。
歴史で起きた出来事は必ず名前が付けられているが、そこにないからだ。
ずっと不思議に思っていた。
デリケートな問題なので少しだけにしよう。
この本は【日本の侵略はなかった】として書いている。
【日中戦争】
満州事変あたりでしばらく、いくつかの戦いがあって、その全体を差す。
一つの戦争は見つからないわけだ。
わからないのはどこを始まりとするか。
しょっぱなから文にまとまりがなく、理解できなかったがこれだけわかった。
盧溝橋事件、上海事変(南京戦まで)だったかが始まりとして言われる。
どっちだったか、後に起きたほうが本当の始まりと書いてある。
先に起きたほうは、共産党が先にやったという。 【毛沢東が言ったこと】
「(日本軍は)包囲は多いが殲滅は少ない」と言ったと
この本に数回でてくる。薄い本なのに。
【蒋介石】
日本軍が無血で南京に入れるように配慮した。
【日本政府】
和平のため、中国に経済を進めるとか、軍事の条約を解除せよなどと言っていた
【日本軍】
居留民(一般の中国人で普通の農民)を守るために上陸していた
南紀大虐殺、慰安婦とかいっているときの被害者とは、各地の住人のことを指す。
各地で、日本軍が近づくと、住人を非戦闘地域に避難させていた。
だからそこに避難していたから、日本軍が入ったときには誰一人いなかった。 【南京大虐殺はなかった】
この本では「なかった」という。
あるとかないとか、どっちも言われるから、どちらかが間違っているのは間違いないことになる。
問題は、どうやったらそれがわかるのか、誰もわからない。
東京朝日新聞だが、写真付きで記事が出ている。
避難場所から街に穏やかに戻っていくときの写真だ。
汚れていない服を着て集団で歩いている写真がある。
『平和蘇る南京』昭和12年12月17日
『昨日の敵に温情』同年12月22日 南京大虐殺は30万人だったか40万人とかいっているらしいが
実際には全員で25万人いたという。
日本軍の惨殺方法を描写した本があるそうだが、一つ一つの惨殺事件で
1万人ずつ死んだと言うらしいが、実際はこうだ。
あるケースでは26人くらいいたうちの4人ほどだけ惨殺ではない殺され方をした。
見たらトラウマになりそうなひどい殺され方を想像したら、間違っているということだ。
(もちろん、この本によれば、ということだが) といっても、日本軍兵士が殺したわけではなかった。
言われる通りの侵略だとすれば、戦時国際法違反になるそうだ。
日本が和平のために行動していたのに、残虐行為をするわけがない。
実は中国が背後から先にやったのだ、ということをこの本で示している。
この本は日中戦争は「中国が先にやった」と書いている。
この問題はデリケートで、解決はおそらくしないだろう。
どんなに調べてもまずわからないだろう。
どういうわけか、いきなり何らかの発見、気づきがあって初めて、状況が変わるのではないかと思う。
それまでは、おそらく、いくら調べてもわからないだろう。
だが、調べない限り、何らかの発見、気づきの時はこないと思ったほうが良い。
いつか、本当のところがわかるようになればいいと思う。
どちらかわからないから、特に激しく言っている人は、その時になって初めて黙るだろう。
そういうことなので
この書き込みを見て怒ったりしないでほしい。
おわり 池内恵(いけうち・さとし)『現代アラブの社会思想 終末論とイスラーム主義』
講談社現代新書1588(2002)
私がアッサラームアライクムといったら、みなさんはこう返す。
ワ・アライクムッサラーム
【アラブの世界】
アラビア語を話し、イスラームの選ばれた人たちのいる世界のことをイスラームとかアラブとか言っている。
アラブ首長国連邦(UAE)、サウジアラビア、イラク、イランなど、
アラビア語を使う国は中東に集中している。
だが、アメリカに住もうと、彼らの一人がいればその世界になる。
【主義】
共産主義である。
文明をつくってわざわざケバケバしくしなくても、そのままでいいじゃないか、みたいな思想。
聖典を悲観視し、攻撃的になったのが世界でテロを起こしたり、
テロじゃなくても攻撃的な思想を持って暴れたりする。
彼らの思想を敵に回そうものなら、日本人だろうと標的になるようだ。
こわいね
【イスラム教】
ユダヤ教→キリスト教→イスラム教と変わった。
神はアッラーだけ。 【コーラン】
面白いことに、キリスト教の批判の言葉がコーランに載っているらしい。
キリストと言わずに、アラビア語の言い方らしき言葉で言う。
【ハディース集】
ハディース集と、コーランがイスラム教徒の聖典である。
コーランに聖書のようなことが書いてあり、批判していて、
アッラーに逆らったら地獄行き、アッラーに尽くせば天国行きと言っている。
ハディース集は、もうちょっと具体的な解説書のようなものだろうか。
国内で政治をするとき、哲学や議論する時、
イスラム教徒の一部がテロを起こす時、終末思想を信じるとき、根拠の文献として
コーランとハディース集がでてくる。
だから異教徒は敵と言っている 【1967はトラウマの年】
ナセルという人が「アラブの統一」という夢を持ち出てくる。
かなりいい線までいったが、1967年にその夢がなくなる。
それからアラブ世界は分裂した。
ここから、テロリストなどの行動をとるようになるという。
1967年以前のことはナセルのことだけ書いてあるので、もっと前のことは私には解らない。
【イスラム教徒の思考パターン】
日本ではなぜか一神教の神だけを神と思う人がいて、この人たちはおそらく
神を信じないと言いたいだけである。
そして、一神教の神を信じる人間のことを、条件反射的に「キチガイ」とだけ言う。
これだけを言って一生を終わる人もいるだろう。
この人たちはなぜかキリスト教の神だけを敵視し、自分は神を信じないから何を言ってもいいと思っている。
そして、多神教の神は理解できないらしい。
このような考え方は、実はイスラム教徒の終末論と同じ思考パターンだったのだ。 私の少ない経験で、一神教の神を信じる人は、物事を単純化しすぎる。
考えないところが多すぎるのだ。
聖書の根拠が思いつけば、それ以上は考えなくていい。
それは、どうも現実と合わないようで、私から見たら何も考えていないかのように見えた。
何も考えていないのではなく、聖書の内容や、そこからくる哲学を考えていたのだろう。
それは、目の前に起きている事とは無関係なのか、なんとなく精神的な距離を感じる。
目の前にいるのに、こちらの胸の内にまったく響かない。
一神教信者の相手は、意識をこちらに向けていないかのような感覚を覚えた。
普通のことを考えれば、私と相手の考えることが、一部一致するはず。
そこから、私と相手は気持ちを向けてくれていることを感じ取る。
それがまったくないほど、宗教の聖典と、現実はきれいに線で区別できてしまうのだろうか。 【ものごとをあまりにも単純化する】
コーランやハディース集の内容を考えているんだが、
この内容と、科学や自然現象と一致する部分が、少しはあるならかまわない。
それが普通だろう。
だが、一致する部分が全くない。
オカルト趣味の人なら、日本の韮澤教授と、大槻教授のケンカが何十年もまったく同じなのと似ているのだ。
この人たちはいったい、何をしているのか。
誰もが引くような内容を証明しようとするのは良いが、信じられないほど進歩がない。
ここまで堂々巡りが続けられるのは、彼らの人としてのレベルがほとんど同じだと思われる。
(能力が同じだと、なかなか決着がつかないから
実力差があれば、どちらかが勝つからだ)
【アラブ世界の著作】
アラブ世界の雰囲気は、アラブ以外の世界と完全に別物である。
なんだか遠い世界のようで、彼らのやっていることが、私たちから全くうかがえない。
いったい、この人たちはどうやってすごしているのだろう。
そう思うような世界は、日本にもちらほらある。
それと同じことだ。
外からは、何をしているのか見えない。
私たちは、アラブ世界を良く知らない。
日本にも影響を与えていた。 【ハルマゲドンと終末論】
イスラムの終末論は雑誌の「ムー」を見ているような印象を受ける。
キリスト教の聖書が元になっており、「救世主」と「偽救世主」が現れることになっている。
イスラム教は、完全に「世界の終わり」のため準備をしている宗教なのだ。
イスラム教徒の考え方の全てが、これが根拠になっている。
アッラーが絶対なので、アッラーの言う事は絶対である。
【イスラーム主義:問題の対処法】
「イスラーム主義」という考え方で、全ての理論を導き出す。
私たちと同じように、自然科学、社会科学の知識を言っても、それを持ち出す根拠は
すべて、コーランとハディース集が根拠である。
物事には、結論と理由、この二つをつなぐ根拠が必要になる。
根拠はすべて宗教から導き出す。
そして、問題解決の時、イスラム教徒はどのように考え始めるか。
解決した状況を最初に描いてさえいれば、勝手にそうなると思っている。
アッラーに従う人間は、そのためだけに行動する。
それだけのために、アラブの外の世界と同じ知識や設備を使う。
ニュースで普通に国家運営をやっているようでも、頭の中が違う。
イスラームの世界では、アッラーの教えを守るためだけに国を作っている。
科学的根拠は、アッラーの考えに劣るのだ。 聖書を批判する時は、世界の終わりに向かう途中で、どうするかだけである。
神はアッラーだけなので、他の宗教(たいていはユダヤ教をさす)は許されない。
大変厳しい教えなので、守れば天国、破れば地獄。
とても過激なことを書いているようなので、恐怖を感じる。
この恐怖の面を強調して考えてしまった人が、タカ派、過激派になるようだ。 イスラム教徒、アラブの世界の考え方に戻る。
解決された世界を何でもいいから描き、そのためだけに行動する。
そして、最初から、他の結果になる行動を、しないことになっている。
大勢の人間がいて、誰かは偶然、守りづらい位置に立っていたりするが
それもあるはずがない。
結果が決まっていて、必ずそうなるから、逆らうはずがない。
本には書いていないが、おそらく「同調圧力」のようなものがあると思う。
日本で言えば「そこに何もないのに」というニュアンスから「同調圧力がある」という。
アラブ世界ではアッラーとはっきり決まっている。
アッラーは厳しいためか、人間の思想も「逆らうなんてありえない」とまで思うのだろう。
【イスラム教では、神は怖いもの】 【日本と似ている同調圧力】
こうなることになっている、だから目の前の人間が
結果から理解できないことをすれば、こいつは存在しないと、日本では思う。
日本の場合、同調圧力で「上」からどんな「蓋」をかぶせているのかというと、何もない。
日本は神を信じるシステムが欠けているし、
組織としても、組織のトップに立つ人の考え方が欠けている。
「存在しない人」の命令で動いているのが日本だ。
だから「何もないところか同調圧力がある」と言っているのだ。
ここに神を入れると、イスラム教とそっくりになる。
さらに、日本とイスラムが似ている部分がある。
【日本のオカルトブームはどこから来たのか】
イスラムのナセルという人が「アラブ統一」を夢見てでてきた。
だが失敗し「1967年」に事件が起き、その後にナセルが他界する。
アラブは分裂し、過激派がおそらく過去以上に過激になる。
それから、昭和の日本に流れるニュースでは「パレスチナ問題」がよくでてきた。
私は小学校のころから、「パレスチナ」という言葉を聞かない日が少なかったと思う。
アラブ世界では、あることが起きていたのだ。 「アラブ分裂」から、終末論を根拠に、それはもう多数の著書が出たという。
政治思想ですら、ハディース集を根拠に、ハルマゲドンの前兆が起きたと書かれる。
日本人がニュースで普通に見ている出来事は、アラブ世界ではすべてアッラーの思し召しだ。
湾岸戦争を特に問題視し、911のワールドトレードセンタービルへの飛行機衝突まで話がつながっている。
私が理解している限りでは、ブッシュのヤラセだが
アラブ世界では偽救世主(ダッジャールという)が、イスラム教徒をそそのかしたと言っている。
テロ行為など、イスラム教徒が先にやったようなことも、全て
ダッジャールである欧米が我々を騙したとか言っている。
911同時多発テロはヤラセかもしれないが、これとアラブの理解は似ている。
どこが違うかというと、アラブはブッシュのヤラセという結論は出ないのだ。
すべて、超常現象だったり、偽救世主ダッジャールだったり、異教徒がやったという結論になる。
アラブの著書はすべて、同じような結論になる。
自然に考えたら、場合によってあれこれ出てくるはずが、出てこないのが違う。
だから「ムー的」な考え方をしている。 アラブ分裂で、この終末論を根拠に思考するのが暴走する。
だが、政治面から、一時的に、アラブ世界の行動が、欧米から見て望ましいものに見えていた。
これからの世の中、望ましい方向へ進むのを、アラブ世界が促進するように思えた。
日本も、アメリカと同じように考えていた。
それがちょうど1980年代で、なんとなく日本でオカルト、超常現象
UFOなどが流行りだしたのだ。
おそらく、そのついでに心霊現象が流行った。
日本はビジネスが成り立てば何でもいいはずだが、日本のオカルトブームは
本当は、アラブ世界のオカルト思想がアニメみたいで面白くて、日本に取り入れられたようだ。
【アラブ世界では、オカルトは真剣なこと】
私たちが科学的根拠で、私たちの命を左右することもあると思う。
それと同じくらい、オカルト思想は真剣な思想、哲学で、真剣に論じられる。
ようするに、アニメのような魔法の超常現象が実在していると思っている。
それはアッラーだけにつながる。
その深いことを日本は司会しようとしないまま、面白いからオカルトブームになった。
アラブではブームではなく生活の一部なのだ。 なんと、日本のオカルトブームはアラブのオカルト思想だった。
これを知ってから、日本で起きたことはアラブとそっくりだとわかった。
こんなところまで、思想の輸入がある。
おそらくこれを理解している人は、アラブを研究する人か、
アラブに接点がある人の一部だろう。
そして、この本を読んだ人だろう。
ほとんどの日本人は知らないと思う。
衝撃の事実。
【日本は超常現象を信じる頭をしていることがわかる】
だから、日本は神を信じていないと言いながら、とても信じやすい精神を持っていることになる。 そういうことで
アラブは意外と、論理性が足りない。
非論理性は、日本と似ていた。
日本の場合は、これに、その場での思考が欠けている。
オカルト思想は、ブームで終わるものではなく、これでもアラブ論理学なのだ。
アッラー、コーラン、ハディース集を根拠にすべての結論が決まっている。
物事の対処は頭から決めてあり、これに反することをするはずがない、というのは日本と同じだ。
日本の場合は、頭から決めるものが欠けていて、ビジョンがない。
だが、日本人は一言もしゃべらずに、アラブと同じくらいの絶対服従を実現している。
日本で「俺は神を信じないから、一神教はキチガイ」と言っている人の言動こそが
一神教的であり、アラブ的であった。
そのように、神を毛嫌いしている人ほど、神を信じやすい人であることがわかる。
アラブ世界では、世界で起きていることがすべてアッラーに帰結する。
それが非科学的でも、アラブにとってはちゃんとした科学である。
その態度こそが、神を信じない人間の、一神教嫌悪と同じことだったのだ。
日本の無神論「一神教はキチガイ、神を信じる人間はキチガイ、テロをするに決まっている。
神を信じる人間の言葉はすべて、犯罪のためだけに語られる」
そうなるのはなぜか。
「神はいる」から「神はいない」と、文字だけ入れ替えたに過ぎないからだ。 文字だけであり、なんで神は居ないのか、二度としゃべらないようにしている人が多い。
それは、神は居ないと思う根拠がないとみなされるはずだ。
だが「神は居ない」という人だけが偉そうにしている。
その理由は、「いるというほうが先に根拠を示せ」と言っている。
これは、何もしない理由にすぎない。
実は、「ない根拠」を示す方法がある。
とても面倒くさいので、神を信じない、いないという人間は根拠を言うのを100%怠るのだ。 神はいないの怠慢がなくならないのは、根拠を持ち出して
何もしないようにしているからだ。
神はいるの主張がなくならないのは、イスラム教徒のように事実とは関係ないことを言うからだ。
聖典を根拠に示すこと自体は悪いことではない。
だが、イスラム教徒と違うことを言うには、宗教と科学を同時に扱う論理性が必要だろう。
どちらかをやると、もう一方がまったく扱えないようでは、絶対に解決しない。
雑談を続けるのではなく、本当に結論が知りたいなら
神は居るという人も、神はいないという人も、イスラム教徒のような雑なことを言わないことだ。
そして、信者が何もしないのをいいことに、
神は居ないという人が、宗教の行為の仕返しをしないことだ。
経験もしていないくせに、ニュースで宗教問題を知った段階で仕返ししないことだ。
目の前の相手はテロとは無関係なのだ。
無関係な人が、テロリスト呼ばわりされているから、神はいないという人に反撃しているのだ。
この現状が生まれたのは、イスラム教徒と似たことが起きた。
雑な議論を根拠に、お互いを決めつけて話しているのだ。
宗教をやったら、発言は100テロにつながると思う根拠は何だろうか。
おそらく、答える人はいないだろう。
現状を変える気がないのなら、神はいる、いないの言い合いは議論ですらない。
ただの雑談であり、お互い、楽をして知識をひけらかしたいだけなのだ。
そろそろ終わろうか。
おわり 左近義慈編著『ヒブル語入門』教文社(1966)
【旧約聖書の言語】
聖書は最初、ヘブライ語で書かれ、ギリシャ語に訳される。
現代は「聖書ヘブライ語」と言っているが、これとも違っている。
スメル語、アモリ語、アラム語あたりの言い方が残っている。
【アラム語の残り】
「私は」
現代ヘブライ語でも聖書ヘブライ語でも「アニー」という。
『ヒブル語入門』では「アノヒー」もあり、アラム語そのままだという。
【ヘブライとヒブルが似ている件】
アラム語などが残っているため、その読み方ではないかと思う。
アラム語もヘブライ文字で書くので、聖書の時代は仲間の言語がいくつかあった。
現代ヘブライ語とは、単語も文法も、全体的に少しだけ違った感じがする。
基本はどちらも変わらないと思う。
現代ヘブライ語から入れば、ヘブライ系統(?)の言語は理解しやすいと思う。 ちなみに、本の最後のほうにアラビア語そのままの単語もあった。
「イマーム」
『ヒブル語入門』の語彙集をざっとみてなかった。
アラビア語の意味は思い出せない。
そういえば、日本にイマームアラビア語大学とかいう大学があるらしい。
NHKアラビア語テキスト(一年分をまとめた厚いほう)の裏に書いてある。
余談だった
【単語の特徴】
現代ヘブライ語の単語を、すこし省略したような書き方と、読み方になる。
現代は「エイ」で終わるが、ヒブル語では「エ」で終わるなど。
あとは
【同じ文字を二度書く】
長くなるのを避けて短くした結果、同じ文字を二度書いたりする。
【基本は現代ヘブライ語】
前にヘブライ語文法を書いた。詳しくはこちら
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1523030859/557-568 【現代ヘブライ語との違いはあまりなさそう】
むしろ、聖書ヘブライ語のほうが違いが大きい
ヒブル語と現代ヘブライ語は似ている。
現代ヘブライ語と聖書ヘブライ語はかなり変えてある。
ヒブル語と聖書ヘブライ語は似ていない
なぜか三段論法に似ているが、気にしないように
【数詞】
現代とは、一つや二つの違いしかない。
数字を一文字で表現することもある。
普通に書いても、一文字で書いても「YHVH」の文字に似ているとだめなのでそこだけ変えてある。
聖書には「神の名をみだりに唱えてはならない」とあると思う。そこからくる。
どの単語でも、神の名に似ていれば、変えようとする習慣がある。
過去から現在まで維持しているのは当然である。
あまり書くことはないのでここまでにしよう
おわり 竹田 晃(たけだ・あきら)『曹操ーその行動と文学ー』
東洋人の行動と思想7 評論社(昭和48年)
前半が曹操の軍事的な偉業。
後半が曹操の文学。
ごぞんじ「三国志」の悪役、ということになっている、と言いたいのがこの本である。
著者は本執筆を考えたら構想は浮かんだが、詳しくない分野(歴史学、経済学・政治学)に
ふくれあがるため、断念せざるを得なかったようだ。
だが「悪役ということになっている」という内容だと思う。
本人は不本意かもしれない。
本当にこのすべてを盛り込んで本にすれば、縦22センチで700ページのハードカバーだったり
400ページが二冊になったはずだ。 軍事面を見るだけで、ただの悪役ではない側面が(ほんのすこし)みえる。
曹操はとにかく有能である。
当時の中国大陸はトップに一人がいるだけで、全てを決めていた。(中央集権制)
トップがどういう人間かに、直接影響を与える。
トップの行動すべてが、国に影響を与える。
呼吸すらも国を傾ける理由になりかねない。
通信技術がそれほど発達していないため、手紙一つ送るのに一週間かかっていた。
誰がどこにいるかも考えない限りわからない時代だったため、
テレビのようには姿を見ることはない。
人前で何かする時だけ気を付けていればよかった。
これは、今も変わっていないことは忘れないようにしよう。
くれぐれも「思考がすべて読まれている」という、オカルトのようなことを考えないために。
話を戻そう 曹操の軍事面では、勇敢に振舞う。強そうに見えなければいけない。
当時、曹操の家の地位のためだったかで、青い服を着ていたんだそうだ。
青い服は、高貴な地位の「しるし」だったわけだ。
曹操と言えば青と思うのはなぜかと思っていた。
ただ、戦争では赤い鎧を着ていることもあった。
(陳舜臣『曹操』にあったと思う。スレに書き込む前に読んだので、探しても見つからない)
【レッド・クリフ】
「赤壁の戦い」は、曹操にしては珍しく大きく負けた戦である。
曹操は、失敗の経験がない、優秀な大学生のイヤミ野郎とは違うと思う。
小さな失敗は繰り返してきたと思う。
曹操の性格が、破天荒なようだ。
「通脱」といって、世の中の当たり前に逆らうように生きていた。
だから、日本で言えば織田信長のような「うつけ者」だったようだ。
そのため、曹操といえば過激な話ばかりなのだ。
優等生のようなきれいなだけの存在ではなかった。
優秀だが、過激な性格だった。
「赤壁の戦い」で大きく失敗した理由はあった。
曹操は、困ったときは、ある軍師にすぐに相談していた。
この軍師が優秀で、最も認めていたのだが死亡していた。
曹操が困っていた時に、劉備と周瑜が長江に陣取った。
曹操の弱点は、水上戦の訓練をしていなかったことだった。
船と船をつないだため、動けなくなった。
蜀呉連合軍がすぐに火計を思いついてしまったのは不運だった。 曹操が本当に能力を発揮したのは
赤壁よりもまだまだあとのことだった。
曹操は円熟したのか、魏の姿を本当に変えてしまうほど優れたことをした。
合肥、建業などで戦ったのもこのあたりのことだ。
光栄ゲームの「三国無双シリーズ」をやっても順番はわからないかもしれない。
そして、意外と誰も知らないかもしれない。
「三国」が出来たのはいつのことか。
諸葛亮などとやりあっているときはすでに「三国あったじゃないか」と思う。
だが、他の国もあった。公孫瓚の国もあった。
いろいろあって、曹操大敗、しばらくして曹操が他界する。
それから、三国だけの世界となった。
この時、劉備、孫権、曹操全員が中国全土のトップ「帝」を名乗っていて、
3つの元号があったようだ。
ここまでが「三国志」の舞台ということになると思う。
実は、歴史関係のストーリーは「三国」とあったら最後に「三国鼎立」になるらしい。
前に『光武帝』を読んだが「いつになったら光武帝が出てくるのか」と思いながら読んでいて
最後まで光武帝とは出てこなかったのだ。
私は、光武帝になったのが誰かも知らなくて読んだため、わからなかった。
「三国志」は三国が最初からあったように映画が作られていないだろうか。 【曹操の文学】
軍事面は、ただ悪いだけではなかったということ。
ただ悪いだけでは、本当に人を喜ばせなかった。
ただの悪党が思い付きで減税するだろうか。
文学のほうは「トップになった者の孤独」「短い人生への寂しさ」
「神仙へのあこがれ」だったようだ。
曹操がよく作った詩は「通脱」といって、上流階級の当たり前ではなかった。
底辺貧乏人の間で作られたものだった。
その詩歌作成を続けていただけで、内容は立派なリーダーだったと思われる。
「曹操の文学はすばらしい」といっているあなた、底辺の文学ですよ。
では、なぜ優れているかと言えば、内容が違うんですよ。
トップに立って国を守る。軍事、政治、あらゆることを同時にしてきた。
それに、曹操は若い時に先人の教えの書物を読んでいたと思われる。
曹操以上に書物を読んでいたのが曹丕だった。
曹丕は四書五経、その他いくらか、書物を読むだけでなく、そらんじてみせたという。
曹操自慢の息子であった。
読み終わった本『曹操ーその行動と文学ー』では、曹操がそこまで書物を読んだとは
書いていなかったが、おそらく、曹丕と同じくらい読んでいたと思う。
曹操の文学は、大衆の底辺芸術でも、内容が良かった。
だから文学面でも、結果として風潮を大きく変えてしまった。 【詩吟】
詩吟という言葉は一切出てこないが、音楽に乗せて歌ったと思われる。
「音楽に載せて歌った」という言葉を使わないように書く必要がわからない。
それはともかく。
映画「レッド・クリフ」で曹操が夜中に兵を集め、檄を飛ばすところがある。
そして、盛り上げるために詩吟する。
ここは普通に詠んでいたが、もしかしたら、実際には歌ったのかもしれない。
あの状況で楽器演奏はしづらいが、歌うだけでも構わない。
映画でなぜうたわなかったかと言えば、どういう音楽で歌ったかわからないからだ。
おそらく、当時の音楽を知ることはできない可能性が高い。
残念なことだ。
当時の音楽がわかれば、今までにない雰囲気を人類が知ることが出来て
感情の理解がますます深まっただろうに。 この本は、曹操のリーダーとしての姿と、詩人としての姿を示す。
『三国志演義』は作者自身が、尾ひれをつけてしまっている。
進んでつけたわけではないだろうが、世の中の風潮、流行があった。
『曹操ーその行動と文学』で、軍隊のリーダーとしては「曹操の正面」とある。
だから、文学をたしなむほうは「曹操の側面」という。
人間は、場面によって、違う行動を見せる。
あなたが友人といて、どんなに深い間柄でも、現在の心理状態を100%当てられないのと同じ。
本当にはわからない。
友人本人も、自分の本当の姿までは知らない。
知らないまま、場面によっていろんな反応をしてしまっている。
あ、自分はこんなことをするんだ、と気づくことで、自分の才能に気づくのである。
だから、人づきあいや、実践がないと、あなたにどんな才能があるのか、知ることはできないのだ。
実際に何か起きて、必要に迫られて、勝手にやってしまう。
「あ、自分はこんなこともできるんだ」と気付いて、才能があるとわかる。
それに気づけるから、人は、たくさんのことを自分で学ぼうとするのである。 日本では、個人の才能を否定し続ける。
日本人は一度に、一つの知識しか扱えない。
二つ以上の知識があると、整合性を「勉強」しようとする。
日本では、思った通りに行動すると、ほとんどすべてが目の前の出来事に合わないのだ。
それを認めようとしない姿勢があり「努力が足りないから、どうしてもうまくいかない」と悩む。
「忍耐力が足りないから、うまくいかない」
物理法則が合わないのと、忍耐力は何の関係もないことを、日本人は考えられなくなっている。
今、日本人は、人間として『三国志』の人物の一人にすら勝てないのではないだろうか。
自分の間違いを一つも認めない。
間違った理由は、根性、忍耐力、団結力が足りないからと思っている。
自分の根性が足りなければ、打楽器をどんなに強く叩いてもまったく音が出ないことになる。
どんなにひねくれた政治家でも、このように考える人は一人もいない。
このように考えているのは日本人だけである。
実際と違うように(心が足りないと)解釈する限り、何をしてもうまくいかない。
今のままでは、日本に真に優秀な人材は生まれない。
その状況が変わるように願っている。
おわり