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伊予国府を探究する
0001名無しさん
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2020/06/10(水) 09:13:54.87ID:pffH+Ep/
古代の今治平野周辺は越智郡と呼ばれていた。
奈良時代には国府や国分寺・国分尼寺が設置され、南海道が通じるなど、伊予国における中心として栄えた。

旧越智郡『和名抄』による古代の越智郡には、10郷(朝倉・高市・桜井・新屋・拝志・給理・高橋・鴨部・日吉・立花)がある。
ほとんどの郷名が現存するが「給理」郷のみ所在が不明である。
「給理」郷の所在について諸説があり判然としないが、「こおり」の地名が役所に由来するとすれば、越智郡衙の所在地論も含めて、何処に比定するかは重大な関心事である。

伊予国府 『和名抄』に「国府在越智郡」とあり、伊予国府が今治平野にあることは確実である。
所在地については戦前から活発に議論されてきたが、未だ統一的な見解に至らない。
0002名無しさん
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2020/06/10(水) 09:15:14.96ID:pffH+Ep/
代表的な推定地は、古国分説(吉田東伍)・出作説(鵜久森経峰)・町谷説(原秀四郎)・中寺説(玉田栄二郎)・八町説(田所市太郎)・上徳説(片山才一郎)の6説である。

戦前は駅家地名にちなむ「松木」などから頓田川左岸域の町谷説が有力であったが、戦後は小字名や文書の検討から流域をやや下った上徳説が優勢となり、これを支持して数次にわたる確認調査も実施したが特定できてはいない。

近年では、平野を横断する国道196号線および周辺の調査で、八町説と中寺説の交わる付近の八町遺跡が2次にわたって調査された。
両次の調査とも遺構の成果は不振であるが、2次調査では、石帯・硯(円面・風字)・墨書須恵器・灰釉陶器などが出土し、遺物のあり方から蒼社川流域右岸の八町・中寺付近が国府域の有力候補地として再び注目されるようになっている。

古代寺院 古代寺院は、頓田川右岸の桜井に国分寺・国分尼寺がある。
国分寺には、北方位の塔基壇と礎石が現存し、出土瓦は平城宮式を中心とする。
国分尼寺の所在は特定されていないが、国分寺と同笵瓦を出土した桜井小学校近辺が最有力である。
蒼社川右岸には中寺廃寺があり、かつて礎石が出土したと伝えられる付近から、寺域を区画すると思われる東西方位の石組を伴う溝状遺構や重弧文軒瓦を検出している。
いずれの寺院も伽藍配置の全容を知ることはできないが、部分的に確認されている遺構は東西あるいは南北指向の配置である。
このことは、当該寺院が厳密な規格をもって建立されたことを示しており、現存する条里地割りと整合しないところに留意すべきである。
0003名無しさん
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2020/06/10(水) 09:30:50.49ID:pffH+Ep/
延喜式内社との関係も見落としてはならない。
今治平野で神社の調査例はないが、『和名抄』神名帳に見る古代越智郡の神社は、大山積(祇)神社・多岐(伎)神社・楠(樟)本神社・大野神社・姫坂神社・大須伎神社・伊加奈志神社の計7社ある。
各神社の所在地については、合祀や異説もあり現在地とは限らないが、地域的に大きな移動がないとすれば、蒼社川流域に楠(樟)本神社・大野神社・大須伎神社・伊加奈志神社の4社があり、河川名の「蒼社」は有力神社の結集する「総社」から転訛したものと思われる。
0004名無しさん
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2020/06/10(水) 09:49:33.60ID:9OjmwrKN
567、、、765
ころな、なろこ
0005名無しさん
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2020/06/10(水) 11:03:18.49ID:pffH+Ep/
蒼社川中流域右岸の古代遺跡
https://i.imgur.com/9efiRNh.jpg

「四村―中寺遺跡群」
遺跡は旧自然堤防状微高地(四村→重徳→中寺)と、その後背低地(五十嵐)の帯状範囲(幅約700m)を中心に分布する。
現状では四村・五十嵐(四村日本遺跡・四村額ヶ内遺跡)と、中寺(中寺馬之烝遺跡)に集中して遺跡の存在を確認しているが、徳重の調査が進めば、遺跡の内容や疎密は別として、一連の遺跡群として捉えることができるものと思われる。

四村―中寺遺跡群の境界については、微高地の北側裾部ラインを北限の目安とし、微地形で分断される八町遺跡1〜7区をここには含めない。
丘陵側(西限)については、I-清水1地点において包含層を確認しており、遺跡は丘陵裾部まで迫るものと思われる。

奈良期の遺物としては、赤色塗彩土師器が普遍的に認められるほか焼塩土器が散見する。
焼塩土器は、四村額ヶ内遺跡SD-03から完形品が出土したほか、四村日本遺跡においても包含層から一定数の破片が出土している。
海岸部から距離のある四村―中寺遺跡群において焼塩土器の存在は、四村―中寺遺跡群が貢納物資である塩を受領する立場にあったことを示す。

平安期の遺物としては、貿易陶磁器や国産施釉陶器などがあげられる。
四村日本遺跡からは越州窯系青磁・京都系緑釉陶器が出土し、四村額ヶ内遺跡では東海系灰釉陶器、中寺馬之烝遺跡では近江系・京都系緑釉陶器がそれぞれ出土している。
これら貿易陶磁器や国産施釉陶器を供膳具として潤沢に使用する状況は、四村―中寺遺跡群が非民衆的な遺跡として営まれた側面を強調するものである。
0006名無しさん
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2020/06/10(水) 11:15:19.53ID:pffH+Ep/
「八町遺跡」と「四村―中寺遺跡群」との関係
今治平野を横断する国道196号線および周辺の調査で、伊予国府推定地の八町説範囲と中寺説範囲の交差する付近の八町遺跡が2次に渡って調査され、8〜16世紀にかけての豊富な遺物が出土した。

中野良一氏は八町1号遺跡の考察において、8〜9世紀の須恵器が大量に出土し、石帯・硯(円面・風字)・「金」墨書須恵器・灰釉陶器などを有する八町1号遺跡とその近辺を広義の国府域と認定し、11世紀段階まで国府的機能が存続したことを推察した。

八町1号遺跡と近辺の特質を、こうした質量ともに豊富な遺物と見るならば、その要因は遺跡の立地に求められる。
八町1号遺跡は蒼社川右岸に接する自然堤防上に位置(標高10m)し、海岸までの直線距離は約3.2kmを測り極めて緩やかな勾配をなす。
この勾配は水量豊富な蒼社川において水運を活用するに十分な地理的条件であり、八町1号遺跡とその周辺は、燧灘から蒼社川
河口を遡った海上交易拠点「津」であったと考えられる。
四村―中寺遺跡群からしばしば出土する焼塩土器や貿易陶磁器・国産施釉陶器などの流通物資は、この八町「津」を経由してもたらされるのである。
0007名無しさん
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2020/06/10(水) 11:19:33.40ID:pffH+Ep/
古代「給理」郷と四村―中寺遺跡群
https://i.imgur.com/yTpHDao.png

古代の今治平野は越智郡と呼ばれていた。
『和名抄』によると越智郡には10郷(朝倉・高市・桜井・新屋・拝志・給理・高橋・鴨部・日吉・立花)が記載される。
ほとんどの郷名は現在でも地名として残り容易に比定できるが「給理(こおり)」郷のみが所在不明である。
給理郷の所在地については異論もあるが、近年の考古学事情からすれば、蒼社川中流域右岸の四村―中寺遺跡群周辺をこれに比定するのが最も妥当な理解である。
なお「こおり」の地名が役所に由来するのであれば、伊予国衙や越智郡衙などの所在地論と絡めて考究すべきフィールドで
あり、蒼社川中流域右岸は、古代の今治平野におけるとりわけ重要な地域である。
0008名無しさん
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2020/06/10(水) 12:04:08.18ID:kusojtv7
>>3

伊加奈志神社(いかなしじんじゃ)

〈祭神〉
五柱命(天地創造神)
五十日足彦命(いかたらしひこのみこと、垂仁天皇の皇子)
伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)
この地に国造として派遣された物部氏の系統の一族が彼らの祖神とする伊迦賀色許男命を祀ったのが起源という説がある。
鎮座地の「五十嵐(いかなし)」も「伊迦賀色許」がなまったものという説がある。

〈歴史〉
『延喜式神名帳』伊予国越智郡に記載された「伊加奈志神社」に比定される。
古くから「総社明神」と呼ばれ、近くを流れる川は蒼社川(総社川)と呼ばれた。
また鎮座地西側周辺は鴨部(かんべ、神戸)郷と呼ばれていた。
安政5年(1858年)に社殿が火災に遭い、古文書や宝物が焼失してしまったという。

〈境内 〉
拝殿
本殿
摂社
 山之神神社:祭神は大山積神
 大己貴神社:祭神は大穴牟遅神
 宗形神社 :祭神は宗像三女神
同じ山の南側にあたる山頂には、石清水八幡神社がある。

〈祭事〉
例祭日は10月10日である。
毎年例祭日の3日後にくじ引きによって翌年までの祭祀を担当する連中(10戸単位の氏子の集まり)が決められ、その頭である当屋が主導する。
例祭はかまど開きの後に餅をついて神前に供え、1週間後にかまどをしまう。
また八十八夜前後には神殿に籠り豊作を祈願する早苗祭が行われる。
0009名無しさん
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2020/06/10(水) 12:09:29.03ID:kusojtv7
国の総社

日本の律令制において、国司着任後の最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することであったが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化された。

総社の多くは中世にいったん廃れたが、後に再興されたものも多い。
ただし今に至るまで再興されずにいるものや、どの神社が総社だったのかわからなくなってしまった国もある。
0010名無しさん
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2020/06/10(水) 12:34:33.75ID:jV9F9AAU
遠路、海を越えてやっとこさ国府に着任したと思ったら
直ぐまた海を渡って大三島の一宮の大山積神社にご参拝とか
「ちょっと勘弁してよー」ってところなんでしょうね
0011名無しさん
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2020/06/10(水) 19:40:55.28ID:FpxrcdL2
国府とは

奈良時代から平安時代かけて(約1300〜800年前)、国から地方に派遣された国司(こくし)らが政務や儀式などをおこなった政治の中心地は国府(こくふ)、その中枢施設は政庁(せいちょう)・国庁(こくちょう)などと呼ばれています。
つまり現在の都道府県庁のような施設にあたります。
また、政庁の周囲には、正倉(しょうそう)や館(たち)などがあり、これらと政庁を含めた施設群が国衙(こくが)と呼ばれています。
0012名無しさん
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2020/06/10(水) 19:41:44.45ID:FpxrcdL2
国府の構造 ―文献史料からわかること

国府内の構造については、文献史料から丁(ちょう)、正倉(しょうそう)、兵庫(ひょうこ)、館(たち)、門(もん)、垣(かき)、雑屋(ぞうおく)などがあったことがわかっています。
丁は国司らが政務や儀式などをとりおこなったところで、政庁のことです。
正倉は農民から集めた稲などを収納した倉庫、兵庫は武器や兵糧を納めた倉庫、館は国司などが居住した宿舎のことです。
垣は役所のさまざまな施設を囲むもので、門がありました。
雑屋は日常的な実務をおこなう事務所、もしくは雑務に携わる施設と考えられています。
0013名無しさん
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2020/06/10(水) 19:43:51.99ID:FpxrcdL2
国府の構造 ―発掘調査からわかること 1

従来、国府は、現在の奈良県にあった平城京のような都の縮小版と考えられていました。
1辺5〜8町(約545〜872m)の方形区画の敷地を縦横に区分けし、その区画をもとに道と役所が計画的に配置された都市であったと想像されていました。
ところが昭和30年代以降、各地で国府跡の発掘調査が進むと、その構造は必ずしも都の縮小版のようなものではなく、国によってかなり差のあったことがわかってきました。
0014名無しさん
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2020/06/10(水) 19:44:52.14ID:FpxrcdL2
国府の構造 ―発掘調査からわかること 2

例えば佐賀県の肥前(ひぜん)国府跡では、国府の外周を囲む、溝や塀などは見つかっていません。
個々の施設は、国庁(政庁)周辺に集中する傾向がありますが、都の縮小版ほどの計画性はありません。
これらの事例から、国府はもともと明確に定められた地区として成立したものではなく、国庁(政庁)を中核として、各種の施設やそれを支えた人たちの住居が広がる漠然とした範囲が、本来の国府の姿だと考えられるようになりました。
0015名無しさん
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2020/06/10(水) 19:48:57.75ID:FpxrcdL2
国府の構造 ―発掘調査からわかること 3

国庁模式図
https://i.imgur.com/VipZdT0.gif

最近の各地の国府跡の調査により、国府の中枢施設である国庁(政庁)の構造が少しずつわかってきました。

各地の国庁の特徴をまとめると以下の共通点があげられます。

・敷地はほぼ1町四方(1町:約109m)の広さで、中央の北寄りの位置に、正殿(せいでん)、前殿(ぜんでん)、あるいは後殿(こうでん)を置き、東と西の位置には脇殿(わきでん)を対称形に配置する。
・周囲を塀や溝によって方形に区画し、南に門を配置する。
・平安時代前半(9世紀)には、それまでの掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)から、礎石建物(そせきたてもの)に変わる。
・8世紀以来存続してきた国庁は、平安時代中期(10世紀)以降には廃退する。
0016名無しさん
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2020/06/10(水) 19:49:33.39ID:FpxrcdL2
国府の構造 ―国府が廃退する背景には

国庁が廃退する平安時代中期ごろ(約1,000年前)は、律令制が衰退する時期に当たります。
このころは、現地に赴任しない国司が増え、代わりに現地で実際に政務を行う中・下級貴族層の受領国司(ずりょうこくし)がその任にあてられました。
政務の中心地も国庁から受領国司の館へと引き継がれ、やがて、国庁は廃れたものと考えられています。
0017名無しさん
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2020/06/10(水) 20:43:10.51ID:aUuuZQWw
警察が梁山泊から出前ww

山口組の冗談かよww
0018名無しさん
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2020/06/10(水) 21:00:56.44ID:cgC54g2e
国司(こくし)とはどのようなものだったのでしょうか。

国司は中央より各国に赴任し、その国の庶政一般をつかさどる地方官です。
現在の都道府県知事のようなものですが、異なる点は、国司は複数いたということです。

古代の役所では、どこも役人を4等に分けていました。
国司も同様で、古代の法律(職員令(しきいんりょう))に詳細な規定があり、上国の国司については「守(かみ)一人、介(すけ)一人、掾(じょう)一人、目(さかん)一人」と定められています。
つまり、この守・介・掾・目の四等官を総称して国司と呼んだのです。

「守」とは長官のことで、役所のすべてを掌ります。
「介」は長官を補佐する次官です。
「掾」は国内の動向を調べ、書類の文案を審査し、非法の取調べを掌ります。
「目」は書類の文案を点検、修正し、公文書を読申する役目でした。

これらの四等官の下に、書記及び雑務を行う「史生(ししょう)」という役人も置かれていました。
この他にも医師、陰陽師(おんみょうし)、書生などの雑員がおり、最低でも640人あまりの人たちが国府で仕事をしていまた。

国司や雑員の人数は国の等級で決められ、その等級は大(たい)・上(じょう)・中(ちゅう)・下(げ)の4等に分けられていました。
各国の等級は律令の施行細則である『延喜式(えんぎしき)に』に列記されています。
ちなみに、近隣での大国は播磨国(兵庫県)で、阿波国(徳島県)・讃岐国(香川県)・伊予国(愛媛県)は上国、土佐国(高知県)は中国、淡路国(淡路島)は下国でした。
0019名無しさん
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2020/06/10(水) 21:25:23.53ID:pffH+Ep/
大化改新前後の文化の中心地は熟田津石湯(道後温泉)のある松山平野にあった。
聖徳太子、斉明天皇、中大兄皇子、額田王らが訪れ、殊に聖徳太子は日本最古の金石文とされる温泉碑文を伊佐爾波岡に建立したと伝えられている(伊予国風土記逸文)。
額田王らは白村江の戦い(六六三)にのぞんで熟田津で万葉歌を残した。
碑文や熟田津の所在地をめぐって論争は続いているが、いまだに結論をみておらず、考古学的調査がまたれている現状である。
こうした松山平野と朝廷との結びつきは仏教文化の興隆という形で開花した。
しかし、松山平野の文化的優位性も日本の朝鮮半島経営の失敗による内政優先という政策転換により色あせざるをえなくなった。
0020名無しさん
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2020/06/10(水) 21:26:58.16ID:pffH+Ep/
大化改新により私地私民制の氏姓制度から公地公民制の中央集権国家体制の確立を目的として、全国を国、郡、里に分け、それぞれに国司、郡司、里長を置く行政体制が整備されることになった。
七世紀末の伊予の場合は藤原宮出土木簡に「・伊予国久米評・天山里人宮末呂」とあるように、伊予国という国名は使用されているが、郡制には移行されておらず、改新前の評制が存続していたことが判明する。
このことは大宝令制定(七〇一年)以後、評制が郡制に移行したことを示すものである。
0021名無しさん
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2020/06/10(水) 21:32:50.15ID:pffH+Ep/
伊予国は南海道の一国に属し、伊予国府は越智郡におかれ、豪族越智氏の根拠地である今治平野が松山平野に代わって政治・文化の中心地となった。
久米氏の軍事力や広大な平野を背景に生産力を誇っていた松山平野は、朝鮮半島からの脅威、内政の充実という内外情勢の変化により、瀬戸内海航路上の要衝にあり前方後円墳の分布が示すとおり古くから大和朝廷に従属していた今治平野にその地位を譲らざるをえなかった。
0022名無しさん
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2020/06/10(水) 21:40:16.42ID:pffH+Ep/
律令国家は行政制度の確立とともに租税制度の確立につとめ、班田収授法を実施した。
その基盤として本格的な条里制が施行されたが、伊予国においては松山・今治平野を中心に宇摩平野、宇和盆地などに広く遺制が残っている。
条里集落は県内にあっては明らかにされていないが、畿内では六町四方(一里)を村域とし、その中央部の一坪に計画的に宅地を配置した例もあるが、一般には自然村落に近いものであったとされる。
住居の配置は数戸の家屋の中に一つの倉と井戸を含む例が比較的多く報告されている。
0023名無しさん
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2020/06/10(水) 21:42:29.75ID:pffH+Ep/
財政、行政とならんで律令制の基盤であった兵制には軍団があった。
国司が統轄し、国内正丁の三分の一を徴兵していた。
伊予国に軍団が設置されていたことは「類聚三代格」の延暦一一年(七九二)の条に軍団に代わって健児五〇人が設置されたことにより明らかであるが、軍団跡としての遺構は確認されていない。
推定跡として今治市旦、東予市旦之上、新居浜市中萩町旦ノ上などが指摘されているが、その根拠はいずれも団が転誂して旦になったという字名によっている。
伊予の軍団跡推定地の地形は扇状地上の扇頂部や段丘上の小高いところに位置しており、その点では共通している。
このようなことから、軍団は国府や郡衙の所在地にさほど遠くない軍事的要地に設置されたと考えられる。

なお、軍団は例えば越智団というように必ず団名でよばれていたはずであり、何々軍とはよばれなかったらしい。
そういう意味でも宇摩郡土居町天満の八雲神社保管の「伊予軍印」は「伊予団印」となっておらず、疑問が残る。
これは形状からみて、軍団制がくずれて健児が採用されていた平安時代のものとする説が有力である。
0024名無しさん
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2020/06/11(木) 01:16:46.29ID:PmV4i90h
国府・国衙・国庁・・・国府の役所。

国府に勤める役人は、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の4等官の下に組織され国司と呼ばれた。紫式部の父は越前守藤原為時、織田信長は上総介。
  
常陸、武蔵のような大国は、特別に大掾、大目と呼ばれた。
国司の地位は相当なもので、鎮守府将軍を務めた平将門の叔父平国香は、常陸の大掾で終わっている。
つまり鎮守府将軍は国司の三等官にすぎないということだ。

天長3年(826)、常陸、上総、上野の三国を親王任国とし、国守を太守と称した。
親王太守は実際には赴任しないので、親王任国では大介がNO1であり、平国香は常陸のNO2であったともいえる。

後に後醍醐天皇は陸奥をも親王任国として、善良親王(後村上天皇)を太守とした。

国司が勤める役所を国庁、役所の建物がある区画を国衙、国庁のある町を国府といった。
しかし、実際はそれぞれ混同して使われている。
0025名無しさん
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2020/06/11(木) 01:18:01.80ID:PmV4i90h
総社・惣社・・・国衙の近くに置かれた神社。

国司は定期的に国内の主要な神社を巡拝する義務があったが、 のちに主要な神社を国衙の近くにまとめて祀り、総社と称して巡拝の便ならしめた。

伯耆国の総社の由緒書きに寄れば、和銅二年(709)に当時の伯耆守金上元為が国庁敷地内の神社に、国内主要神社を併せ祀ったとある。
総社の初見である。

総社は、のちに国司と組んで権力を握り、その国の神官の任免、神領の配分などに影響力を及ぼした。
しかし、律令体制の崩壊によって、次第に衰微し、中世に至ると一之宮や、守護大名の影響が強い八幡社に、その地位を奪われていく。
0026名無しさん
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2020/06/11(木) 01:19:53.69ID:PmV4i90h
国分寺・国分尼寺・・・諸国に置かれた官営の寺。

聖武天皇の天平13年(741)3月24日、詔して諸国に国分寺、国分尼寺を造る。
国分寺は「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺は「法華滅罪之寺」が正式名称。

大部分は国府の市域の外にほぼ接して置かれた。

国分寺の制度は、中国の唐に倣ったものと思われる。
載初元年(690)則天武后は全国の諸州に大雲経寺を、その子中宗は、神竜元年(705)大唐中興の名を持つ中興寺のちの龍興寺を設置した。
こうした寺院の経営、僧尼の生活は国費でまかなわれた。
我が国の国分寺制度のお手本であろう。
0027名無しさん
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2020/06/11(木) 09:32:44.10ID:zxJ44oSH
警察が梁山泊から出前ww

山口組の冗談かよww
0028名無しさん
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2020/06/11(木) 13:26:48.71ID:FFsr3z8y
結論から先に言います。根拠は追って述べたいと思います。
国庁・国衙があったのは朱塗り左上の地域で、正倉院があったのは朱塗り右下の地域と思います。
今治市教育委員会・愛媛県埋蔵文化財センターの発掘調査に期待したいと思います。
https://i.imgur.com/ZmUHa7e.jpg
0029名無しさん
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2020/06/11(木) 14:36:29.57ID:BOg53EqL
手口

例えばな、堀江を自殺させたいとするだろ?

まず堀江を虫歯にする
堀江が「歯医者」を探す、「敗者」

歯医者が「野口歯科」「野口、しか?」

こんなやり方が公務員のやり方ww
0030名無しさん
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2020/06/11(木) 14:37:03.20ID:BOg53EqL
結論から言います


やよい→いよや!
0031名無しさん
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2020/06/11(木) 18:08:58.37ID:qkWQmOpw
>>28
その付近の発掘調査だと「四村額ヶ内遺跡」のものがありますね

遺跡名 四村額ヶ内遺跡 よむらがくがうちいせき

遺跡所在地 四村字東前114-1 あざひがしまえ
調査期間 1995 11 06 - 1996 01 29
調査面積 700m2
調査原因 病院施設建設
遺跡概要
種別 集落
時代 平安から鎌倉前期
主な遺構 溝 河川 土坑 柱穴
主な遺物 須恵器 土師器 瓦質土器 緑釉陶器 製塩土器

遺跡所在地 徳重5丁目字トヰカ188-2 あざといか
調査期間 1997 07 28 - 1997 08 22
調査面積 661m2
調査原因 個人住宅建設
遺跡概要
種別 集落
時代 弥生後期から古墳
主な遺構 竪穴建物 溝 土坑 柱穴
主な遺物 弥生土器 土師器 須恵器 鉄製品

遺跡所在地 徳重134-5
調査期間 2015 02 23 - 2015 02 24
調査面積 4.5m2
調査原因 個人住宅
遺跡概要
種別 集落 古墳
時代 古墳から古代(細分不明)
主な遺構 土坑1 ピット1
主な遺物 弥生土器 須恵器 土師質土器 備前 青磁 瓦
0032名無しさん
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2020/06/11(木) 19:08:16.92ID:XL+N1kYX
>>31
それ、最初のは「四村」の南病院敷地の発掘調査だし、後の2つは「徳重」の一宮神社近辺のもので、何れも「五十嵐」の『額ヶ内』の発掘のものではない。
教育関係者の阿呆どもは、珍妙な[四村額ヶ内遺跡]などと名付ける前に、本物の『額ヶ内』を発掘調査しろよ。
0033名無しさん
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2020/06/11(木) 19:19:53.23ID:VdI+B2IO
>>31
> 字トヰカ

字十烏賊って漢字がちゃんとあるのだけれど
今時の登記簿はカタカナ表記になってるのかな?
0034名無しさん
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2020/06/11(木) 23:09:29.73ID:UQzP02jQ
「トイカ」は「外五十嵐(ソ-トイカ-ナシ)」の詰まった地名かと思ってました。
0035名無しさん
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2020/06/11(木) 23:28:02.93ID:OeeqLo5U
外様大名(とざまだいみょう)外山(とやま)の外(と)の筋はあるかも
外五十嵐→といかなし→といか→十烏賊

外があるなら内もあるわけで国学らしき地名と推察できるのがこれ
学ヶ内→がくがうち→額ヶ内
0036名無しさん
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2020/06/11(木) 23:35:45.88ID:PmV4i90h
国学(こくがく)とは、律令制において、官人育成のために各国に設置された地方教育機関。
大宰府に設置された府学(ふがく)もほぼ同一のもの。

大宝律令によって設置が定められ、各国の国府に1校の併設が義務付けられた。
入学資格としては郡司の子弟のうち13−16歳の聡明な者とされていたが、学生定員に欠員がある場合は庶民の子弟の入学を許した。
生徒には官人候補者にあたる学生(がくしょう)と医師候補者の医生(いしょう)がおり、その数は国の規模によって違っていた。

大国…学生50名 医生10名
上国…学生40名 医生8名
中国…学生30名 医生6名
下国…学生20名 医生4名

教育課程は中央の大学寮・典薬寮とほぼ同じ内容であったと考えられ、卒業者は試験の結果によっては官人に登用されたり大学寮や典薬寮に入る資格を得ることが出来た。
757年には中央の制度改革に伴って学生が細分化されて講経生・傅生・医生・針生・天文生・陰陽生・暦算生に分かれた。
教官としては各国毎に国博士(くにのはかせ)・国医師(くにのいし)を各1名ずつ置く事が定められていたが、人材難に悩まされて国学が置かれない国や一人の教官が複数国を担当することも珍しくなかった。
各国で制度が整ったのはようやく奈良時代末期になってからであると考えられている。
また、国博士や国医師が史生と同等に扱われて国府の業務に動員されていた記録も存在する。

だが、平安時代に入ると律令制度の崩壊とともに国学も衰退し、11世紀に入る頃までにはほぼ消滅した。
記録上でも平安時代末期の12世紀初期を最後に姿を消し、このころに廃絶されたと考えられている。
0037名無しさん
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2020/06/11(木) 23:45:27.45ID:PmV4i90h
大宰府学校院跡(だざいふがっこういんあと)は、福岡県太宰府市大字観世音寺に所在する大宰府の官人養成機関に関する遺跡。
1970年(昭和45年)に、国の史跡に指定されている。

大宰府学校院は、中央の大学・典薬の両寮、地方の国学に相当するものである。
その成立時期は明らかではないが、律令制度の整備が進むにつれて、学校に相当する機関が設立されたと考えられている。

天応元年(781年)3月の太政官符に「府学校に六国の学生・医生・算生は二百余人あり」と見えるのが文献上の初見史料である。

1969年(昭和44年)から、大宰府史跡調査の一環として発掘調査が行われた。
学校院の中央部から掘立柱建物4軒が検出された。
そのうち2軒は2間×3間の総柱で倉庫風の建物、他の2軒のうち1軒は4間×7間の南北に庇を持つ建物と推定されており、中心的建物と考えられている。
この建物の時期は平安時代前半と推測されている。
学校院の東辺部からは掘っ立て柱建物7軒、南北溝、築地状遺構などが検出されている。
建物は3回建て替えられ、奈良時代の後半頃の建物が一番古い。
南北溝は、平安時代から室町時代にかけて存続しており、築地状遺構も平安時代前半頃の築造と考えられており、学校院の東を区切るものであったと推測されている。
学校院の全体の発掘調査は今後の課題である。
0038名無しさん
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2020/06/12(金) 13:57:24.25ID:Bp/24WGx
県の埋文センターが調査した『四村日本遺跡』の調査報告書を読んでると面白いことが書いてある。
(以下、都合良く抜粋)

I次調査区の微高地からは、古墳終末期(飛鳥期)の掘立柱建物と、平安期と思われる掘立柱建物を重複して検出した。
微高地からくだる窪地付近では、奈良〜平安期のゴミ坑や埋め甕ピットのほか、多様な遺物が散乱する遺物溜まりを検出した。

一方II次調査区では、柵列で遮蔽される平安期の大型の掘立柱建物と、土坑を伴う庇付き掘立柱建物を検出した。

古代の四村日本遺跡から検出した遺構の時期は、大別して古墳終末期(飛鳥期)と奈良〜平安期であるが、とくに奈良期の遺構認定には難渋した。
II次調査区では層位的な検出状況から平安期よりも明らかに先行するピットなどを確認したが、いずれも小径のピットが散見するのみであり、掘立柱建物や柵列を構成するには至らず、奈良期の掘立柱建物などは検出できていない。

II次調査区で検出した掘立柱建物は、一般的な掘立柱建物とは異なるいくつかの点が指摘できる。
建物の規模と構造柱穴の平面形は隅丸方形をなし、規模は一辺74〜88cmと大きい。
柱間は約2.5mと広く、深度のある柱穴の間には深度の浅い補助的な柱が設けられる。
掘立柱建物の各部に見られる規模的な要素は、かなりの大型建物であることを暗示している。
建物の上屋構造に関しては、後述する建物解体時の柱材抜き取り痕から軒瓦類を含まない丸瓦・平瓦が少量ながら出土しており、部分瓦葺きの建物であった可能性が強い。

掘立柱建物における各柱穴の埋土は、建物解体時の柱材抜き取り痕(1層)と、建物建造時の柱材擁立埋め土(2層)からなる。
遺物は1層中から丸瓦・平瓦とともに平安期の土師器・緑釉陶器・青磁などが出土し、2層中からは奈良期の須恵器や焼塩土器のほか浮岩が出土した。
こうした遺物の出土状態は、掘立柱建物が人為的に解体されるなどして廃絶したことを示唆している。
なお廃絶時期を示す1層出土の遺物には、京都系緑釉(小椀)や越州窯系青磁(杯・椀)などがあり、京都系緑釉の編年観に拠れば10世紀後半頃の廃絶と判断できる。
創建時期については判然としないが2層出土の須恵器や焼塩土器の存在から奈良期まで遡る可能性はあるが限定できないのが実状である。

II次調査区を中心とする掘立柱建物群は、大型で庇を有する建物や部分瓦葺きの建物で構成され、また、初期貿易陶磁や国産緑釉陶器を供膳具として保有するなど、一般民衆の集落とは異なった格式を認めることができる。
よって掘立柱建物群の性格については、公的施設(官衙など)あるいは有力階層(貴族・官人層)の居宅の一画である可能性を想定したい。
0039名無しさん
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2020/06/12(金) 20:29:10.28ID:YhhGkC9H
>>38
> 四村日本遺跡

現地は「字日ノ本」なんだけれど
今時の登記簿は「字日本」表記になってるのかな?
0040名無しさん
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2020/06/12(金) 21:32:44.32ID:HwdUxXW2
国府推定地を地図で見てみよう。
https://i.imgur.com/N4pi4mR.jpg

徳重 :字十烏賊・字中瀉・川嵜
四村 :字日ノ本・東ノ前・川嵜
五十嵐:字額ヶ内・字寶蔵
    字五十嵐鼻・字山本・字藪下・字大株
0042名無しさん
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2020/06/13(土) 19:12:02.62ID:xOlpnZv9
大宰府もそうだが、海辺りに立地せず、内陸川縁に立地している点は同じか。
しかし、周防国府は海辺りなんだよな。
https://i.imgur.com/vXCzLCO.jpg
0043名無しさん
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2020/06/13(土) 21:08:54.56ID:cv7/psNZ
こんな昔話が残っています。


河上安固と蒼社川

江戸時代の半ば頃まで、蒼社川は、豪雨に遭うと、しばしば堤防が決壊し、田畑や家屋が流失したり、時には尊い生命さえ奪われました。
人々は、お天道さんの仕業で、どうにもならぬ天災だと考え、この蒼社川を「人取川」と言って大変恐れました。
そのため、江戸時代の代々の今治藩主は、この蒼社川の治水のために頭を悩まし、何度も河川工事を行いました。
この治水に真正面から取組み、よい成果を収めた人に、今治藩主第五代松平郷に仕え、土工に手腕のあった河上安固(勘定目付を勤めました。)という人がいました。

当時は、蒼社川は今と違って、玉川町から日高の片山、馬越を経て、浅川方面に大きく曲がって海に注いでいたといわれます。
(一説には、元禄時代にはすでに、片山、馬越は新田開発が行われ、川が流れていた痕跡はないとして、城の西から北への屈曲説を否定する向きもあります。いずれにしても、川が現在のような直流ではなかったことは事実のようです。)
また、現在よりも川幅が広く川床が浅かったようでした。
そのため、梅雨など豪雨にあうと、すぐに堤防が破壊され、はん濫のうき目にあいました。
とりわけ、清水村、立花村はしばしば水害に見舞われました。

安固は、鳥生に住居を構えていましたが、毎日高橋の権現山に登り、蒼社川を見下ろしては、何とかよい方法はないものかといろいろ考えました。
また、夜も出かけては水音に耳を傾けました。
このようにしていろいろ水勢を研究した結果、曲がった川筋を真っ直ぐに付け変えればよいという結論に達しました。
安固は、さっそく藩主に願い出ましたが、事が余りにも大きすぎるとして、なかなか許可をえることが出来ませんでした。
しかし、安固の身命を賭した情熱に藩主も心を動かされ、すべての仕事を任されました。
安固は、まず川筋に当たる農民を動員して支流を廃し、川筋を直流にしました。
当所は、農民も安固のやり方を非難しましたが、そのうちに彼の熱意におされ、進んで協力するようになりました。
この付け変え工事は、現在のように土木工事の進んでいる時代と違うので、相当な労力と日数を要する難工事であったようで、宝暦元年(1751)に着工し、十三年目の宝暦十三年(1763)に完成したといわれています。
なお、付け変えだけでは雨が多いと川の水があふれ出ることがあるので、堤防を築くとともに、宗門堀と称する川ざらえ作業を行いました。
この宗門堀は、毎年春に三日間、十五歳から六十歳までの男子を選んで当たらせたそうです。
このようにして、徹底的に治水に当たったため、それまでのように再々大きな洪水に見舞われることもなくなり、人々も安心して生活が出来るようになりました。
蒼社川のほか、呑吐桶及び鳥生高下浜の唐桶も彼が手がけたもので、土木方面に並々ならぬ才能があったことを知ることが出来ます。

安固の墓は、現在鳥生公民館の北側の墓地にあります。
河上家は、後に古土居と改姓したので、墓石には『古土居家先祖累代墓』と書かれています。
なお、墓石の左側に、遺徳をたたえるため、今治市教育委員会、鳥生史談会、鳥生老人会『史跡河上安固之墓』と書いた木碑が、また右側には、『河上安固墓所』と言う石碑がそれぞれ建っています。
0044名無しさん
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2020/06/13(土) 21:33:18.10ID:h5sAkwuT
江戸時代の河川改修が現代の河川流路を決定付けているのは事実。
足立重信が湯山川(石手川)を伊予川(重信川)と合流させたように、河上安固は蒼社川を谷山川と合流させたのかもしれない。
0045名無しさん
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2020/06/13(土) 23:54:13.88ID:lCHDUQut
額ヶ内には、こんな物語もある。


清水の松尾(現在は五十嵐になります)の庄屋に、近藤八右衛門という人がいました。
正義感が強く、村民のためによく尽くしたので、村人から俗に府中の佐倉宗五郎といわれ、だれからも崇拝されていました。

寛文年間(1661〜1672、詳しくは寛文元年─1661─と寛文七年─1667─になります)全国的に飢饉に見まわれました。
今治藩でも餓死こそなかったようですが、不作で農民は苦しみました。
今治の初代藩主久松定房の時でしたが、藩主が参勤交代で江戸に在住中、国もとの某家老が代わって政治を行っていましたが、重い年貢をかける等悪政の限りをし、農民を痛めつけました。
八右衛門は家老に年貢の軽減を何度も頼みましたが、一向聞き入れてくれません。
非常ないきどおりを感じた八右衛門は、藩主に訴えることを決心し、他村の庄屋(法界寺と郷の庄屋ではないかといわれています)と相談しましたが、後難を恐れた他村の庄屋は途中から彼のもとから離れてしまいました。
某家老の悪政は募るばかりであったので、ついに八衛門は単身で命をかけて事に当たることにしました。
寛文七年(1667)十一月、遠路をいとわず江戸に上り、参勤中の藩主に直訴し、訴状二通を差出しました。
藩主は、八衛門の労をねぎらい、頭巾と杖を与え、税を軽くすることと善政を敷くことを約束しました。
その後、農民は以前のように安心して作業に精進することができるようになりました。
そして、八衛門の行為に村人は心から感謝しました。
しかし、悪家老は八衛門の直訴を恨み、復讐の機会をねらっていました。
ある日、八衛門が家族四人と五十嵐の額ヶ内で麦撒き中に大勢の武士が早馬で駆けつけ、「無礼なやつめ」と五人の者を即座に、その場で切り殺してしまいました。
時に寛文九年(1669)十月十日でした。
藩主から余(自分)の代わりに肌身離さず身につけておくようにいわれていた頭巾と杖を、家に置いているところをねらわれたといわれています。
村人の悲しみはひととおりでなく、密かに遺体を浄寂寺裏の法華寺山に葬り、五人主様(五人主霊ともいいます)として手厚く祭りました。
今もその墓は残っていますが、罪人扱いにされたのをはばかってか、書かれた文字が摩滅していて不鮮明です。
また、後に浄寂寺境内に、五人主堂を建てて八衛門とその家族をお祭りしました。
なお、その時乳飲み子が一人いましたが、幸運なことに家で子守をしていた乳母の実家の町谷(旧富田村)に密かに逃れて、その難を免れました。
後に、その難を恐れて、その名も羽倉と改めましたが、八衛門の血を引く、その子孫が今もずっと続いています。
(現在、末孫といわれる町谷の羽倉勝正氏宅に、五人主様の位牌が祭られています)
なお、この惨事があって以来、松尾村の庄屋は取り潰しにあいました。
その後、屋敷跡に小さい社を建てて、霊を弔っていましたが、最近近くの三島神社に一緒にお祭したので社跡はみかん畑になっています。
それから、八衛門等五人が殉難した額ヶ内は、今の清水小学校の正門近くの校庭の片隅に当たります。
五人主の功を称えるため、昭和四十八年(1973)に清水小学校の児童PTA等地元の人たちが奉賛会をつくり『五人主殉難之地』の石碑(1.4メートル)が建てられました。
0047名無しさん
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2020/06/15(月) 07:55:00.98ID:Dp/UBvGr
29にく、、、13いみ、、、4し
92くに、、、14いし、、、9苦
93くみ、、、15いちご、、35産後
95くご、、、10天、、、56ころ
567、、、ころな
893、、、やくざ
344、、、みよし
104、、、とうし
468、、、ヨーロッパ


どう5?
0048名無しさん
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2020/06/15(月) 07:55:15.81ID:Dp/UBvGr
やよい→いよや!
0050名無しさん
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2020/06/16(火) 08:12:37.38ID:XuzPc+Ox
事務所移転のバイト

社員が顧客の資料の箱を紛失したけど内緒にしてくれってほざいてバイト連中とか黙ってるけどよ

こんなのネットで
ちくらないとどうすんだよ?

守秘義務違反を悪用するのがバイトじゃなくて社員なんだよ
0052名無しさん
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2020/06/18(木) 12:30:12.41ID:iN1Z0V2G
パチン、コ屋の名前調べて見ろよ

阿部魔TV ばっかやぞww
0053名無しさん
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2020/06/18(木) 12:59:09.69ID:GlsV4OMO
日本における道路建設が始まったのは、5世紀だとする記録(日本書紀)もあるが、詳しくは分かっておらず、疑問視する意見が多い。
記紀に見られる四道将軍の記述は行政範囲を指すものであり確実な道路自体を指すものではない。
確実なのは、6世紀の奈良盆地においてであろうと考えられている(筋違道など)。
この時代の大規模で主要な交通手段は河川を利用した水運であり、道路は建設されたとしても、広い幅員、直線的な形状といった特徴はまだ備えていなかった。
しかし仁徳天皇の時代に一時的に宮都が難波に置かれたことをきっかけとして、すでにかなりの人馬の往来があったことが、周辺にこの時代の遺構が多くあることからも伺い知れる。
0054名無しさん
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2020/06/18(木) 13:01:56.73ID:GlsV4OMO
直線的な道路が計画的に整備されたのは、7世紀からだとされている。
奈良盆地では、7世紀初頭に以前の宮都が置かれた盆地中央部(纏向、磐余、現在の桜井市、橿原市東部など)から当時の宮都が置かれていた飛鳥へ向かう阿部山田道などの道路が建設された。
6世紀末から7世紀末までの推古天皇朝を中心とする時期に、飛鳥から奈良盆地を北上する南北の直線道路が平行して3本(上ツ道、中ツ道、下ツ道)作られるとともに、それに直交する東西の直線道路が河内方面へ向かって作られた(横大路)。
また、河内平野では「京」(この「京」は仁徳期に置かれたとされる高津宮を指し、現在の大阪市中央区)から南下する直線道路が難波(現在の堺市)に通じており(難波大道)、これら2つの大路を結ぶのが日本最古の官道、竹内街道である。これらの道路は、36 - 42 m という非常に広い幅員を持っていた。
こうした直線道路の出現の背景には、7世紀初頭に派遣された小野妹子らの遣隋使と関係があり、古代中国の隋との交流から大和朝廷に派遣された隋からの使節団を迎え入れるために、朝廷が道路整備に力を注いだのではないかと考えられている。
0055名無しさん
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2020/06/18(木) 13:04:58.46ID:GlsV4OMO
陸上の交通では専ら徒歩・徒走であった。
牛馬などの家畜は当時は高価で貴重な財産であり、またこの頃は荷駄の運搬を陸送で大規模に行われることは少なく、家財は現地調達が基本である。
街道を整備する最も重要な理由は、情報伝達と往還による情報交換であり、高速に移動できる馬はこのために利用された。
長距離の伝達経路を確保するには、人馬を休息させたり交代させたりする設備が必要であり、官道の整備とともに伝馬を育成・調達・管理(これを特に厩牧令(くもくれい)という)し、厩(うまや、駅、駅家とも)を置き、これを厳格に運営しなければならなかった。
0056名無しさん
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2020/06/18(木) 13:06:36.89ID:GlsV4OMO
大化の改新により646年正月に出された改新の詔で

「初めて京師(みさと)を修め、畿内国司(うちつくにのみこともち)、郡司(こおりのみやつこ)、関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人、駅馬(はゆま)、伝馬(つたわりうま)を置き、及び鈴契(すずしるし)を造り、山河を定めよ。」

とあり、駅伝制を布いたことがわかる。
これを一般的には宿駅伝馬制度という。
宿駅としての機能は、街道にそって中央の支所として置いた各国の国府や郡衙が兼ねた場合が多い。
0057名無しさん
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2020/06/18(木) 13:08:33.33ID:GlsV4OMO
直線道路網の全国的な整備は、これを契機として計画的になされ始めたのではないかとする説がある。
改新の詔については、その信憑性を巡って根強い論争が続いているが、発掘調査などによれば、全国各地、とくに関東地方や九州北部で直線的な道路が多数発見されており、少なくとも大化の改新直後には畿内及び山陽道で直線的な駅路や駅家(うまや)の整備が行われ、680年頃までには九州(西海道)北部から関東地方(東海道)に至るまでの広範囲にわたって整備が進んだようである。
日本では急流のために渡河が難しい河川があるため水駅もおかれた。

日本の駅伝制は、8世紀に制定・施行された律令において詳細に規定された。
律令の駅伝制は、駅間をついで駅馬を往復させる駅路と、駅から伝馬を使って国内に情報を伝達収集する伝路から構成されていた。
ただし史料には「駅路」の用例は見られるものの「駅道」「大道」「達道」などとも記載され、また「伝路」の用語は見当たらない。
このことから、制度として明確に道が定められていたことも、また名称もあったわけではないと思われる。
0058名無しさん
垢版 |
2020/06/18(木) 13:31:07.12ID:GlsV4OMO
駅路は、中央と地方との直接の情報連絡を目的とした路線で、各地方拠点を最短経路で直線的に結んでおり、30里(約16 km)ごとに駅家が置かれていた。
律令の地方制度は五畿七道といい、中央である五畿と地方である七道から成っていたが、七道のそれぞれに駅路が引かれた。
駅路はその重要度から、大路・中路・小路に区分され、当時、国内最重要路線だった中央と大宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部が大路、中央と東国を結ぶ東海道・東山道が中路、それ以外が小路とされていた。
駅家に置く馬(駅馬という)は、大路で20頭、中路で10頭、小路で5頭と定められており、使者が駅馬を利用するには、駅鈴が交付されている必要があった。
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