2月なかば、神長恒一氏とともに「だめ連」を立ち上げた友人、ぺぺ長谷川さんが亡くなった。享年56歳。

雨宮処凛
作家・活動家
2023年03月02日 11時12分 JST

2月だというのに春のような陽気の日、梅の花が咲く公園で大勢の人たちがお酒片手に語り合っていた。
この日開催されていたのは一足早い花見一一ではなく「ぺぺ長谷川をみんなで送る交流会」。
2月なかば、友人であるぺぺ長谷川さんが亡くなったのだ。享年56歳。
といっても、「誰?」という人もいるだろう。
ぺぺ長谷川さんとは、1992年、神長恒一氏とともに「だめ連」を立ち上げた人である。
「だめ連」。現在40代以上の人であれば覚えている人も多いだろう。
就職もせず、結婚もせず、上昇志向とは無縁の人々。もともとモテない、職がない、なんの取り柄もないなど「だめ」な人たちが、「だめ」をこじらせないように世の中の支配的な価値観を捉え返す場としてできたという。
だめ連では、「うだつ問題」(どうやってうだつを上げるかにこだわることなど)や「ハク問題」(箔をつけることにこだわること)などが大いに議論され、
とにかく「交流」が良しとされ、できるだけ働かない生き方が模索されてきた。90年代、「だめ連」は若者たちの新しい生き方として、メディアなどにも大きく取り上げられていた。
そんな「だめ連」に、私は当時から注目していた一人だ。といっても、フリーターだった私はテレビや雑誌などで彼らの活動を見るくらい。
ただ、当時は中野に住んでおり、駅前に自転車なんかをとめておくとそのカゴに「だめ連」のチラシが入っていたりして、彼らの存在を身近に感じていた。中野の隣の東中野では、だめ連界隈の人たちが「沈没家族」という共同保育の取り組みをしていて、これもやはり大きな注目を集めていた。
が、当時の私は積極的に関わろうとはしなかった。少し年上の彼らの「便所サンダルを履いた昭和の貧乏学生」みたいな迫力あるヴィジュアルにビビっていたからである。
この人たちと関わったら、人生絶対おかしくなる。そう思い、距離を置いていた。しかし、だめ連のイベントを見に行ったりはしていた。
彼らと関わるようになったのは、私が1冊目の本を出した2000年頃。それからイベントなどで時々顔を合わせるようになり、06年、私がプレカリアート運動(一言で言うと貧乏人運動)に参戦してからは、デモや集会などでしょっちゅう会うようになった。
印象深いのは08年、G8の洞爺湖サミットに反対するキャンプに行った時のこと。キャンプは数カ所あったのだが、ぺぺさんが炊事担当をしているところに行くと、クズ野菜みたいなものからあっという間にたくさんの料理を作ってくれて、それがどれも美味しくてびっくりした。

ぺぺさんとさらによく会うようになったのは3・11後だ。

     ===== 後略 =====
全文は下記URLで

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_63fff048e4b05f1e793d52d3