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統計を取り始めた明治20年から昭和5年までの半世紀、47都道府県で
工業生産額トップの位置にあったのが実は長野県。第一次大戦期間を除いて、
1位長野県、2位兵庫県、3位岡山県で、ほぼ固定していた

明治大正の日本経済を支えた工業品は、生糸・蚕種・紡績・マッチで、
2位兵庫県は紡績とマッチの生産地、3位岡山県は紡績の中心地。ただ紡績は
大量の綿花を輸入して半分以上を国内消費して、約3割を輸出するだけなので
外貨獲得額で言えば差し引き大幅マイナスだった。マッチも高価なリン鉱石を
輸入しないと作れないし、製品の半分は国内消費なので外貨は全く稼げない。
紡績やマッチのように、忙しく働いても全く外貨を稼げない産業の事を、
俗に賃機(ちんばた)産業という。

1位長野県の生糸と蚕種は原料国産100%で、輸出額=外貨獲得という
紡績やマッチとは比較にならない優れた商品だった。明治44年の外貨獲得の
55%が生糸、16%が蚕種で、長野県が日本の7割の外貨を獲得して、日本の
近代化を牽引した。戦艦三笠や戦艦敷島を英国ビッカーズ造船所から購入した
外貨は、長野県で生産された絹と蚕種が稼いだ。

90%が米国に輸出された日本産生糸は(欧州はフランス・イタリアが生糸生産
先進国だった)、ソックス・女性下着・ドレス・スカーフ・ブラウス・男性用
ネクタイの原料や、ロープ・絹巻線(プラスチック/合成ゴムが無い時代は、
電線/電信線の被覆/絶縁に絹を巻くしか無かった。絹は燃えやすいので漏電で
よく火災を起こした)など産業用に使用された。ちなみに日本の外貨獲得の残り
3割は、銅・硫黄・海産品・茶・オモチャなど。

大正期に岡谷の山一林組で起きた製糸女工達によるストライキ(集団罷業)が、
日本初の本格的な産業ストライキとされており、戦前から労働運動や青年会活動
や女性運動が盛んで、昭和10年代に各地の青年会が機関紙(全ての村の青年会に
「○○時報」という新聞があった)で軍部批判を行なったために特高警察から
激しい弾圧を受けて、多くの若者が投獄された。

そう言った伝統から、戦後も社会党や立憲民主党など革新勢力が選挙に強く、
東北・北関東・北陸・中四国・九州の『自民党の金城湯池』とは明らかに違い、
田中康夫のような革命的な知事も出る。

お蚕様で稼いだ長野県は、子供の教育に非常に力を入れて「教育県・長野」と
言われるようになった。1970年代までは、東大合格者数のトップ30に
長野高校・上田高校・松本深志の3校が必ず入って各校20人くらい送り出して
いたもんな。公立高校でトップ30に入っているのは都立高校・浦和高校・
大宮高校・翠嵐高校・湘南高校など都会の高校ばかりの中で、田舎県が常に
3校もランキングさせているのは長野県だけだった。1980-2000年まで知事を
務めた吉村という利権知事が、県内高校学区を4から12にして『教育県長野』
もボロボロになってしまったが(田中康夫が学区を4に戻したが、20年間で
佐久長聖など私立校が力を付けて、公立高校のランクは中々上がらない)。