西郷がいかに軍人として、人として駄目かは、熊本城で敗退後も4か月に
わたり逃げ回り、熊本県南部、大分県、宮崎県を戦場として荒らしまわり
最後は、はげ山の城山でいやいや自決したことで知れる。

勝てないとはっきりしている熊本城での敗退後もなぜ、4か月も逃げ回り
荒らしまわったのか・・・その人間性は最後に明らかになったといえる。

西郷軍の弱点は食料その他戦争遂行に不可欠な軍需品の供給に全く見通しを
持てず、それらを侵攻先の現地調達に頼ったことである。
これなどは、全くに日本軍最悪の作戦と言われる、インパール作戦と
同じことである。食料にさえ事欠くようでは、兵も盗賊同様になる。

竹田や臼杵では、士族への薩軍参加への強要、各戸主へ刀剣で脅迫し
軍資金を強奪、逃亡する際には各戸へ放火するなどやりたい放題。
人吉などでは、少しでも逆らうと殴る、蹴る、踏むの暴行のうえ
処刑しようとしたり、兵を徴発しようと戸長に命ずるも、集まらぬと
知るや、戸長の右肩を一刀のもとに切りつけるなど、規律も何もない
盗賊同様であった。