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(※画像はイメージです/PIXTA)

黒船の来航は、幕末の日本を震撼させました。しかし、黒船が帰ったあとに「いとあやしき病」が流行して、当時100万人だった江戸市民のうち、約28万人が死亡したのです。幕末史上最悪の感染症は、どうして発生したのでしょうか。これまで、あまり語られなかった視点から、黒船来航の功罪を検証してみましょう。

黒船がもたらした被害
ペリーが率いる黒船は、嘉永6年(1853)6月3日、神奈川県の浦賀沖にやってきました。突然現れた4隻の巨大な軍艦を見て、日本人はびっくりしたことでしょう。そのため、このような狂歌が詠まれました。「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた4杯で夜も眠れず」。上喜撰とは高級なお茶のことで、お茶を4杯飲んだら眠れなくなったという意味です。上喜撰とは蒸気船、4杯とは黒船が4隻やってきたことを指しています。

黒船来航は、こんな歌が詠まれるほど、ショッキングな出来事だったのです。それもそのはずで、黒船は何門もの大砲を向けているのですから、いつ火を噴くのかと気が気ではなかったでしょう。

しかし、ペリーは日本への攻撃を許されていなく、威嚇のための空砲しか撃てなかったため、黒船は怖くないとすぐに見抜かれたようです。ペリーは、6月12日に日本を離れます。たった9日間の滞在でしたが、黒船来航は、日本人に大きな衝撃を与えました。今回は空砲でしたが、再び黒船が現れて今度こそ実弾を撃ってくるかもしれないからです。そして、ペリーはそれから半年後に、再び現れます。ペリーが再度来航したのは、日米修好通商条約を締結するためでした。

これ以後、日本とアメリカの間で粘り強い交渉が行われ、安政年5(1858)に、大老・井伊直弼が独断で、日米修好通商条約を締結してしまいます。こうして、長年続いた鎖国が廃止され、アメリカとの交易が始まりました。条約締結について、孝明天皇の勅許を得ていませんでしたが、ここまではそれほど大きな問題はありませんでした。

しかし、アメリカとの交流が始まった日本を、恐ろしい疫病が襲います。ペリーが率いる4隻の軍艦のうち、ミシシッピー号に乗っていた船員たちが、コレラに感染していたのです。まず、黒船が最初に寄港した長崎でコレラが発生し、またたく間に日本全土に感染が拡大しました。

コレラは3年にもわたって猛威を振るい、江戸では人口100万人のうち、28万人が死亡する事態となったのです。まだ戸籍がなかった時代ですから、日本全土でどれくらいの犠牲者が出たのかはっきりしませんが、一説では日本人の3分の1が、死亡したのではないかと言われています。

日本にコレラが蔓延したのは、これが最初ではありません。コレラは文政5年(1822)にも、朝鮮半島からもたらされています。人々は見たこともないコレラの症状に恐怖し、感染して数日で死に至るとから、「三日ころり」と呼ばれました。

このときのコレラは、幸いにも江戸では流行しなかったので、被害は地方に限定されたものでした。しかし、黒船が持ち込んだコレラは江戸市中に広がり、多くの犠牲者を出すことになります。日米修好通商条約は、不平等条約と揶揄されることもありますが、それまで鎖国して、外国との交流を絶っていた日本社会に、風穴をあけてくれました。

こののち、日本は欧米列強と積極的に交流し、多くの最新技術や、西洋文化を吸収することになりますが、それはコレラの大流行というおまけつきでした。つまり、日本は新しい夜明けを迎える代償として、多くの人命を失ったのです。