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枝野幸男元代表

 野党共闘という甘い夢に酔い痴れ、「禁断の果実」を口にした立憲民主党が、惨敗という予想外の結末によって窮地に立たされている。いまだ革命の夢から醒めぬ共産党。その票ほしさに政権交代のチャンスをドブに捨てた野党第1党。

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“勝者なき戦い”と評された今回の総選挙だが、“敗者”が存在しなかったかといえば話は別である。

 メディア各社による事前の世論調査で、単独過半数割れの危機が取り沙汰された自民党は、絶対安定多数となる261議席を獲得。公明党や国民民主党は議席を増やし、日本維新の会に至っては約4倍に伸ばしている。それに比して、野党共闘を先導し、総選挙での躍進が期待されながら、議席を減らした立憲民主党と共産党が“敗者”なのは誰の目にも明らかだ。

 政治部デスクによれば、

「立民は小選挙区で9議席増やした一方、比例はマイナス23議席と激減させている。つまり、選択肢の少ない小選挙区で議席を微増させたものの、比例では維新や国民民主に大量の票が流れてしまった。共闘路線が裏目に出た格好です」

 立民の枝野幸男代表が辞任したのも当然の結果だろう。政治アナリストの伊藤惇夫氏はこう語る。

「今回の総選挙は“顔のない選挙”でした。唯一の例外は維新の吉村洋文・大阪府知事くらいで、自民党にしても、かつてのように“安倍さんがいるから”“小泉純一郎さんの政党なら”といった理由で投票する有権者は少なかったはず。枝野代表の顔が立民の票に結びついたケースなど極めて稀でしょう。選挙で問われたのは、むしろ政党の地力や実力であり、そこで浮き彫りになったのが立民の未熟さです。政策や選挙戦略の練度、地域に根を張った後援態勢など、自民に比べて脆弱な面が次々に露呈しました」

共産党との選挙協力で失ったもの
 それは虎の子の“野党共闘”も例外ではない。

 作家の佐藤優氏は次のように指摘する。

「結局のところ、立民は共産党との選挙協力について足し算だけを考え、引き算は頭になかった。1万〜2万票とされる各小選挙区の共産票を取り込めると計算しながらも、それによって失うものの大きさを理解していませんでした。たとえば、立民最大の支持団体である連合傘下の組合の多くは、経団連に加盟する企業の組合なので共産党への忌避感が強い。共産系の民商・全商連と協力関係にない個人事業主らも、共産党と連携する立民を支持しなかったでしょう。さらに、公明党の支持母体である創価学会は、〈混ぜるな危険 立民共産〉をスローガンに、本腰を入れて自民候補の選挙運動を行いました。共産党と手を組むということは、これほどのリスクを伴う禁じ手だったのです」

 結果、立民が誇る二人の“無敗の男”にまで土をつける事態となったのである。

消えた“治外法権”
 まず取り上げたいのは中村喜四郎氏のケースだ。

 中村氏は1994年、ゼネコン汚職に絡んで逮捕される直前に自民党を離党。以降、一貫して無所属で当選を重ね、“日本一選挙に強い政治家”と称される。それゆえ、茨城7区での敗北には衝撃が走った。

「辛くも比例復活しましたが、無所属なら間違いなく小選挙区で勝てていた」

 地元支援者のひとりはそう言って肩を落とす。

「選挙前から喜四郎先生に逆風が吹いていたのは事実です。3年前の県議選で、先生の地盤である古河市選挙区から長男の勇太(はやと)さんが初当選を果たしたのですが、そのせいで先生を長年支え続けたベテラン県議が落選し、支援者の間に軋轢が生じてしまった。総選挙での古河市の得票数は自民の対抗馬に6千票以上も水をあけられています。加えて、もうひとつ大きかったのは公明票の存在です」

 実は、公明党は、無所属になってからも中村氏の選挙を支援し続けていた。

「茨城7区は自公の選挙協力の“治外法権”と呼ばれてね。公明の山口那津男代表が茨城出身で、喜四郎先生と同じ中学の後輩だったことも影響しているようです。ただ、喜四郎先生が立民入りして、しかも、仇敵である共産党と選挙協力するとなっては公明も推すわけにいかなかった。公明が自民候補を推薦したことで、古河市だけでも1万票以上が逃げたと思う」(同)