【吉田ドクトリン】日本をこんな国にしたのは吉田茂
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関嘉彦と丸山真男、森嶋通夫論争
http:
//www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2001/ronbun/01-r3.html
戦後も四、五年すると「空気」は一変するのだが、しばらくの間は国際常識に近い国際政治論、安全保障論
が展開されていた。憲法案の審議では共産党や社会党の議員までも、第九条で自衛戦争まで放棄したら、
日本はどう安全を保障していくのかと、問い質している。また、メディアは、書物も含め占領軍の厳しい検閲
の下にあったが、戦前派の気骨ある言論人は、厳しい制約の中で国際常識に近い主張をしていた。
例えば美濃部達吉氏だが、憲法第九条は「他日完全な独立を回復し得た後に考慮されるべき問題」
だと書いている。占領下の今は甘受するが、講和の後にきちんと改正しよう、との立場である。
こういう状況が変化してくるのは、一九五〇年頃からのことである。丸山真男氏に代表される
「戦後民主主義」論者が登場し、その独特の平和論が論壇を席捲していくのだが、当時からその問題点
をついていたのが、関氏である。「戦後民主主義」は、その巧みな呼称のために、
単純に〈戦後の民主主義〉のことと思い込まれているが、そこには独特の意味が込められていた。

三、関嘉彦・森嶋通夫論争

一般の人々の間で関氏の国際政治論が注目されたのは、『文藝春秋』での森嶋通夫氏との論争によってである。
関・森嶋論争は読者の反響が大きく、翌年の文藝春秋読者賞を受けた。世間の注目を集めたのは、森嶋氏が、
日本は文化交流、経済協力など「ソフトウェア」で国を守る途を探るべきだとし、「不幸にして最悪の事態が起これば、
白旗と赤旗をもって、平静にソ連軍を迎えるより他にない」としたことにあった。
論争がなされたのは、ソ連のアフガニスタン侵攻の数ケ月前だが、一九七六年のミグ事件、一九七八年の
栗栖弘臣・統合幕僚会議議長の「超法規」発言の後で、有事や防衛への関心が高まってきていた時期であった。