戊辰戦争当時、最も新しい兵器であったガトリング砲は、薩長でも幕軍でもなく、佐幕中立の長岡藩で装備された。実戦での活躍をここに解き明かす。

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ガトリング砲は一度に大量の弾丸を消費するため、供給が追い付かないことや、小回りが利かないことなどがネックになり、外国でも普及しなかった。写真は河合継之助記念館に展示されているガトリング砲の模型。

 戊辰戦争一番の激戦地といったら、皆さんはどこを思い浮かべるだろうか?

 白虎隊の悲劇があった会津、同じく少年たちが活躍した二本松、藩主不在のまま戦いとなった白河、戊辰戦争最後の戦いの舞台となった箱館、厳密にいえば箱館の五稜郭は城郭ではないのだが、これらの激戦地では城が落ちている。

 だが、同じ城が2回落ちている場所がある。どういうことだ? と思われるかもしれないが、一度落ちた城を奪還した後に戦い、再び城を手離さなければならなくなったのが、長岡藩である。

 戊辰戦争の際、長岡藩は旧幕府側にも新政府側にもつかない、つまり中立を打ち出した。中立を保つためには強力な軍事力が必要である。そのため長岡藩の家老であった河合継之助(かわいつぎのすけ)は、大量の兵器を謎の外国人エドワルド・シュネルから買い付けた。謎というのは、出身地や生没年などの詳細が不明だからだ。

 継之助が彼から買ったものの中に奇妙な兵器があった。それが当時発明されたばかりのガトリング砲であった。

 ガトリング砲と呼ばれているが、大砲ではない。連発銃を6本円形に繫げたもので、ハンドルを回すと連続して弾を発射することができ、1分間に150発から200発撃つことができた。当時の兵士が1回の会戦で200発の弾薬を用意したといわれているから、それをわずか1分で撃ってしまうことになる。

 ガトリング砲は、アメリカを二分した南北戦争中の1862年、アメリカの医師リチャード・J・ガトリングによって発明された。彼は、マシンで動く銃を作れば、その分戦場に行く兵士が減り、負傷する者も命を落とす者も減ると考えていたという。しかし、この新しい兵器は北軍にも南軍にも正式採用されることなく南北戦争は終結してしまう。

 その後、起こった普墺(ふおう)戦争でも活躍することなく、慶応3年(1867)、横浜に2門陸揚げされたものを、継之助が1門5000両、計1万両で買い付けたのだ。この当時インフレが進んで1両が1万円程度だったとはいえ、1億円もの巨費を投じたことになる。

 継之助は、中立を保とうとしたものの、新政府軍がこれを許さず、慶応4年5月10日、長岡藩は新政府軍に対して引き金を引いたのである。ミニエー銃を手に持ち、フランス式で訓練された長岡藩軍に対して攻めあぐねていた新政府軍は、とんでもない行動に出た。城の外堀代わりであった信濃川を渡河したのである。当時は旧暦を使用していたから、5月といえば、今の6月、つまり梅雨の真っ最中で、この年は特に長く、川は増水しており川を渡るのは無謀と思える行為だった。

 思わぬ敵からの攻撃に長岡城下はパニックに陥った。敵の急襲に継之助は、秘密兵器ガトリング砲を引いて駆けつけ、信濃川の近く大手門の土手を楯にして乱射したという。しかし、継之助の奮戦むなしく落城してしまう。7月25日に八丁沖の戦いで城を奪還したものの、その4日後、再び落城。継之助も負傷し、会津へと落ちていく途中で人生の幕を閉じた。

 ガトリング砲が活躍したのは5月19日の攻城戦の時だけで、その後の記録はない。明治2年(1869)の宮古湾開戦で、旧幕府軍の回天に対してガトリング砲による攻撃が行われたため、回天は新政府軍の軍艦甲鉄に近づくことができなかった。このガトリング砲が、継之助が購入したガトリング砲であったがどうかは不明である。ただ、明治元年9月25日に長岡藩が降伏した時に没収された武器の中にガトリング砲は含まれていなかったという。

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