筆者は尹錫悦政権が発足する少し前、日本の政界やマスコミが韓国での保守政権誕生で日韓関係が好転すると期待していることについて、「尹錫悦政権の踏み絵に 佐渡金山から見る反日感情」で、尹錫悦氏であっても韓国の構造的な反日に抗することができず、むしろ同氏が未来志向の日韓関係を掲げたことがアキレス腱になりえると論じた。

 本稿では、韓国の構造的な反日もさることながら、北朝鮮という社会主義の独裁国家と接しているにも関わらず、韓国ではなぜ左翼が強い力を持っているのか? という観点から、尹錫悦政権が誕生しても変わらない韓国という国の本質と同政権の対日政策の見通しに迫っていきたい。

韓国人も知らない建国秘史
 1945年8月15日、大日本帝国が連合国に敗れたことによって朝鮮半島は解放され、米軍が占領した南側に大韓民国が、ソ連軍が占領した北側に朝鮮民主主義人民共和国が成立した、ということが多くの日本人にとっての歴史的事実だろう。だが、これは正確な歴史ではない。

 ほとんどの日本人が、いや韓国人であっても、よほど政治や歴史に興味がある層を除いては知らない歴史的事実がある。それは、解放後の朝鮮半島で初めて〝建国〟された国家は、「朝鮮人民共和国」という社会主義国家であるということだ。

 ここから終戦直前の1945年まで時計の針を戻してみたい。

 8月9日、日ソ中立条約を破ったソ連軍がソ満国境を越えて満州に侵攻したことを受けて、連合国との終戦交渉をソ連に期待していた日本政府は万事休すとなり、10日には条件付きながらもボツダム宣言受諾の意思を連合国に表明した。

 しかし、この意思は朝鮮半島の統治機関である朝鮮総督府(総督府)には知らされなかった。総督府がそれを知ったのは本国政府からの公式伝達ではなく、連合国への意志表明のために行われた短波放送であった。

 ポツダム宣言が示した日本の主権が及ぶ範囲は、本州と北海道、九州、四国に限られていたため、総督府は敗戦によって主権を失った朝鮮半島に暮らす70万人近い日本人の生命と財産の安全を守ることが急務となった。そこでの懸念は①目前まで迫ったソ連軍による京城(現在のソウル)侵攻とソ連軍による日本人への暴虐、②日本統治に甘んじてきた朝鮮人の暴徒化――の大きく2つであった。

 14日、本国政府からの伝達で翌15日正午に終戦の詔勅(玉音放送)がラジオ放送されることを知った総督府では、ナンバー2の遠藤柳作政務総監がある男に使いを出して、15日早朝に官邸で会談することを申し入れた。

 その男とは独立運動家にして共産主義者であり、朝鮮人からの人望が厚い呂運亨(ヨ・ウニョン)であった。遠藤は本日正午に日本が敗戦することを伝え、朝鮮半島の治安維持を朝鮮人の手に託すことを提案すると、秘密裏に短波放送を傍受して日本降伏の事実を把握していた呂運亨は、これを承諾した。

 呂運亨は遠藤に政治犯の釈放などを求めて了承されると、総督府を後にしたその足で自らを委員長とする建国準備委員会を結成し、呂運亨に付き従い会談に同席した鄭佰(チョン・ベク)は16日、日本統治下で霧散していた朝鮮共産党を再建した。

 呂運亨と鄭佰のこの素早い動きは、ソ連軍のソウル進駐後の政局を主導したかったことを意味する。

幻の社会主義国「朝鮮人民共和国」
 しかし、呂運亨の思惑は大きく外れることになる。連合国最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥は9月2日、朝鮮半島に所在する日本軍に対して、38度以南は米軍に、以北はソ連軍に降伏するように命じた。これによって呂運亨が期待したソ連軍のソウル進駐は消え失せた。

 建国準備委員会は当初、右派民族主義者も含めた組織であったが、右派民族主義者が中国・重慶で活動する大韓民国臨時政府を支持して離脱したため、共産主義者の牙城と化す。

 そして、呂運亨は9月6日、ソウル市内に500人ほどの建国準備委員会代議員を集めて全国人民代表大会を開催、朝鮮人民共和国の建国を宣言して、親日協力者など「民族反逆者」の土地没収などの施政方針を発表するに至る。発表された閣僚名簿には後に韓国の初代大統領となる李承晩が主席、呂運亨が副主席として名を連ね、北朝鮮の最高指導者となる金日成も国会議員にあたる人民委員に選出された。