お家騒動から圧制へ
真田信利(さなだ・のぶとし、1635~1688)という人物が、お家騒動をきっかけに好き放題をして自滅していったエピソードをご紹介します。

この真田信利という人物は、真田信之(さなだ・のぶゆき)の孫にあたります。信之は、少し前のNHK大河ドラマ『真田丸』の主人公である真田幸村/信繁(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)の兄です。

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真田信利(Wikipediaより)

信利の父親は信吉といいました。信吉は、信之の正室の子ではなかったため、真田本家のある松代藩ではなく、分領である沼田藩を治めていました。

さらに、この一族には信政という人物もいました。これは信之の次男で、つまり信利から見れば叔父にあたり、信利の父の信吉の兄弟にあたります。

1658年、この信政が亡くなったことでトラブルが起きました。彼は信之の嫡子でもあったので、松代藩は後継者を誰にするかについて信之の判断を仰ぎます。結果、信政の子である幸道が後継者として幕府に届けられました。

しかし、これに不服を申し立てたのが信利でした。「松代藩を継ぐべきなのは自分だ」と主張したのです。その理由は、まず幸道がまだ一歳と幼いこと、庶流とはいえ自分も信之につながる血筋であることでした。

信利は、正室の実家や幕府の大老も味方につけて、松代藩の後継になろうとします。

しかし幕府は、あくまでも信之の嫡子か庶子か(正室の子か側室の子か)を重視し、最終的に幸道への相続を認めます。

その一方で、幕府は沼田藩を独立した藩にすることで、信利を納得させようとします。

が、納得できない信利は本家に対抗して実際の二倍以上の検地高を報告したり、沼田城に五層もの大天守閣を建てたり、江戸の屋敷を松代藩のものよりも豪華に改装したりします。

そのしわ寄せは領民たちに及び、飢饉でもないのに重税のために餓死者が出るという事態に発展しました。

命を賭した直訴
そこで立ち上がったのが杉木茂左衛門(すぎき・もざえもん)という領民です。1680年、彼は幕府への直訴を決意しました。それが死罪になることは承知の上でした。

彼は江戸まで出向き直接大老を訪ねましたが、追い払われてしまいます。

そこで一計を案じ、訴状を日光へ持っていくと、箱に入れて茶屋に置き忘れたふりをしていきました。その箱には、三代将軍・家光の墓がある輪王寺という寺の紋が付いていました。

箱を見つけた茶屋の主人は、「これは武家の方のお忘れ物に違いない」と考え幕府へ箱を届け出ます。茂左衛門の狙い通りでした。

こうして訴状が幕府へ届き、信利の圧政が幕府に知れるところとなったのです。

すぐに信利は改易。本人も家族もあちこちの藩で預かりの身となり、沼田城の天守閣も堀も破壊されました。

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沼田城跡(沼田公園)

過大な実高を算定して幕府から請け負った事業に失敗したあげく、直訴という形で藩統治の問題点が公になったことが、改易の理由でした。

ちなみに茂左衛門は、「決まりは決まり」として妻子とともに磔刑に処されました。

しかし、ともあれ沼田の領民は彼のおかげで助かったのです。その功績は今も語り継がれており、地元に伝わる「上毛かるた」の「て」は「天下の義人 茂左衛門」となっています。

「上毛かるた」と言えば群馬県民なら小さい頃からほとんどの人が五十音を全て暗記すると言われているほどのもの。茂左衛門の義侠心は、時代を超えて人々の心に伝わっているのです。

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