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愛知県になって150年…いまだに尾張と三河には“確執”が ※画像はイメージです

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などたくさんの歴史的偉人を輩出した「愛知県」。歴史ある観光名所も多く、味噌煮込みうどんやひつまぶし、手羽先など、グルメな土地としても有名です。魅力たっぷりの愛知県ですが、実はその昔「尾張」と「三河」という2つの地域に分かれていたのをご存知でしょうか。明治初期に一緒になって今の「愛知県」ができましたが、150年以上たった現在も、県内では尾張と三河の“軋轢”が尾を引いているのだとか。今も「戦国時代」が続いていると、オーバー気味につぶやく人もいるようです。実情を両地域の出身者に聞いてみました。

「応仁の乱」からの因縁が現代に!?
尾張と三河がお互いを牽制しあっている理由については、諸説あるようですが、古くは足利家の後継者争いを発端として起こった「応仁の乱」が関係しているのではないかと言われています。

尾張は足利義尚率いる西軍、三河は足利義視サイドの東軍に付き戦ったことで、両者の間には大きな溝が。

そののち、戦国時代にこの地を治めていたのは、尾張は織田家、三河は松平家(のちの徳川家)。しかし思いがけない裏切りにあい、幼いながら三河地の当主になるはずであった徳川家康は織田家に囚われ、人質となってしまいます。

精強で家康への忠義が強いと言われる三河武士団。家康を人質に取った織田家にただならぬ恨みを抱いたことは、いうまでもないでしょう。このような積年の怨みつらみが重なってか、尾張と三河にはいまだ戦国時代の戦火が残っている…のではないかとも言われています。 

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