4/1(土) 0:23     ジャーナリスト  田中良紹
https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakayoshitsugu/20230401-00343750

 5年前に93歳で亡くなったロナルド・ドーアという英国人社会学者がいた。朝鮮戦争が勃発する直前に来日し、吉田茂の息子の吉田健一や評論家の中野好夫、加藤周一、学者の都留重人、丸山眞男らと交流し、江戸時代の日本の教育を研究して博士号を取得した。

 その後ロンドン大学、ハーバード大学、MITなどで教授を務め、日本研究の大家として米国人のドナルド・キーンと並ぶ存在だった。ドーアは「大の親日家」だったが、亡くなる4年前『幻滅 外国人社会学者が見た戦後日本70年』(藤原書店)という本を書き、中曽根政権以降の日本がアングロサクソン的価値観に染まっていくことに「幻滅」を表明した。

 経済面で言えば、日本には第二次世界大戦を戦うために政府が作り出した資本家と労働者の妥協の仕組みがあった。「1940年体制」と呼ばれるが、それが戦後の「日本型市場経済」を作り出し、日本社会に格差の少ない経済成長をもたらした。

 しかし1960年代に始まった官僚や大企業社員の米国留学制度によって、新自由主義に染まった「洗脳世代」が生まれ、その世代が出世する80年代に日本の米国化が加速されたとドーアは言う。

 外交面で言えば、戦後の日本が重視したのは「国連中心主義」だった。日本が国連に加盟した翌年、岸信介総理は施政方針演説で「我が国は国連を中心として世界平和と繁栄に貢献することを外交の基本方針とする」と宣言した。同時に日本は「自由主義諸国との協調」と「アジアの中の日本」も必要であることから、この3つが外交の基本軸となった。

 しかし米ソ冷戦によって国連は機能しなくなり、日本外交は「国連中心主義」より「自由主義諸国との協調」すなわち「米国との協調」に比重が移った。その結果、日米安保体制が「日米同盟」と呼ばれるようになり、それが80年代の中曽根政権で急速に強化された。

 ところが89年に冷戦が終わると、国連の機能は回復の兆しを見せる。90年に起きたイラクのクウェート侵攻で、米国のブッシュ(父)大統領は国連の同意を得て多国籍軍を結成、国際社会が協調して侵略に対抗することになった。これは第一次世界大戦後に作られた「不戦条約」の理想に沿う方針だった。

 日本国憲法の平和主義は「不戦条約」を下敷きにしたものである。しかしこの時日本は多国籍軍に自衛隊を参加させず、資金提供にとどめたことで国際社会から厳しく批判される。自衛隊を参加させようとした政治家は小沢一郎ただ一人で、それ以外は与党も野党もみな憲法9条を理由に自衛隊の海外派遣に反対した。

 日本は世界から国際貢献に背を向ける利己的な国家と看做され、慌てた日本政府は憲法解釈をぎりぎりまで拡大し、国連主導のPKO(平和維持活動)に限って自衛隊を参加させる国際平和協力法とPKO協力法を制定した。しかし当時の社会党、共産党、社民連は「軍国主義の復活だ」と猛反対する。