室町~戦国時代に、戦の勝敗を左右するほど活躍した犬が存在した……という話があるのをご存じだろうか? スパイ犬や伝令犬として、戦場を駆け抜けた犬たちと、信頼関係で結ばれた武将の驚くべきストーリーをご紹介しよう。

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■スパイとして城に忍び込んだ犬がいた!?

 日本犬は洋犬に比べて原始に近い犬である。独立心が強く、時に飼い主さえ無視する。そういう気ままなところが魅力だ。だから軍用犬にもならなかったし、警察犬にもそれほど向いていないとされる。ちなみに、近年の遺伝子解析によって狼に近いことが確認されている。

 しかし歴史上、何の役割も果たさなかったわけではない。日本犬も気が向けば、そして飼い主を心から信頼していれば、時に大きな役割を果たすのである。事実、スパイや伝令として活躍した犬がいた。まあ、珍しいから記録に残ったとも言えるが……。

 そうした記録のうち“スパイ犬”の話は、室町時代に成立した『太平記』に出てくる。南北朝時代の暦応元年(1338)閏七月のこと。新田義貞(にったよしさだ)が越前の合戦で死亡した。後醍醐(ごだいご)天皇が頼りにしていた新田の死で、北陸方面の南朝勢力は衰え、城は次々に攻め落とされてしまった。

 そんな中で孤軍奮闘していたのが、勇猛果敢で、しかも怪力で知られていた畑六郎左衛門時能(ときよし)が守る鷹巣城である。そこに、知略に優れた一井兵部少輔氏政も援軍を引き連れてやってきた。そこで北朝の足利方も、小さな城とはいえ侮れないと、鷹巣城の周囲に三十あまりの付城(つけじろ)を築いた。付城は出城(でじろ)、向城(むかいじろ)とも言い、敵の城に攻めるため向かい側に作る砦のことである。

 鷹巣城を守る畑時能には、同じく怪力の二人の甥がいた。そして畑時能は二人の甥と「犬獅子」という名の犬を連れ、夜な夜な付城に忍び込み、次々に敵を追い払っていったのである。

 畑時能は、敵の防備がどの程度か確かめるために、まず犬獅子を城に入れた。犬獅子は城の中を偵察し、防備が堅くて外部から侵入できそうにないと、一声吠えて城から出てくる。逆に防備が手薄だと、戻ってきて尻尾を振るのである。犬獅子の報告は正確で、奇襲は常に成功したという。

 歌川国重の『武勇見立十二支・畑六良左エ門』に、畑時能と犬獅子が描かれている。犬獅子は白と茶色の斑犬(まだらいぬ)だ。日本列島に昔から斑犬がいたかどうかは諸説ある。しかし、絵巻物などには好んで斑犬が描かれた。江戸時代に描かれているぐらいだから、有名な逸話として語り継がれていたのだろう。

■戦場を駆ける伝令犬 落城寸前の窮地を救ったのは犬だった!? 

 次に伝令犬の話である。時は下って戦国時代、小田原の北条氏が北関東に進出し、上杉謙信と争っていた頃のこと。上杉方に、武蔵国岩付城を根城にする太田資正(すけまさ)という、犬が大好きな武将がいた。江戸城を築いた太田道灌(どうかん)のひ孫である。この資正は岩付城のほか松山城でも暮らし、犬を使って合戦を度々有利に進めていた。

 武田氏の戦術や戦略を記した軍学書とされる『甲陽軍艦』に、その逸話が記されている。ある時、北条方が松山城に攻め込んできた。松山城の人々は岩付城の資正に援軍を要請したかったが、周囲を完全に包囲されている。もはや伝令を出すこともできないから、松山城は絶体絶命かと思われた。

 それなのに、岩付城から援軍が到着したのである。実は、資正は犬たちが二つの城を行き来できるよう、岩付城で飼っていた犬50頭を松山城に置き、松山城で飼っていた犬50頭を岩付城に置いていた。そして松山城の留守居に、「何かあったら犬を放せ」と指示してあったのである。