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 演技もさることながら、言葉も絶品だった。2015年11月のグランプリ(GP)シリーズのNHK杯で史上初の合計300点超えを果たした際には「〝絶対王者〟だぞと自分に言い聞かせてやりました」。翌年12月のGPファイナルで男女初の4連覇を達成時には「誰からも追随されないような羽生結弦になりたい」と言ってのけた。右足首故障から約4カ月ぶりの実戦となる2018年2月の平昌五輪ショートプログラム(SP)ではショパンのピアノ曲「バラード第1番」を完璧に演じきり、発した「僕は五輪を知っている」との言葉は多くの紙面を飾った。ほかにも2019年3月の世界選手権でネーサン・チェン(米国)に敗れて2位になった後の「負けは死も同然」、昨年12月に全日本選手権2連覇で北京五輪代表を決めた際の「(五輪)3連覇という権利を有しているのは僕しかいない。夢の続きを描いて、また違った強さで臨みたい」。メディアを引き込む天性の素質を持っていた。

 そんな不世出のスターだからこそ、メディアも放っておかなかった。報道も過熱し、週刊誌ではプライベートの隠し撮り写真が掲載されることも多かった。臆測で記事を書かれることも日常茶飯事。16年3月、世界選手権の開催地、米ボストンの空港に到着した際には、見知った数人の記者を前に「僕はアスリートなんですけど。スケートしたいだけなんですけどね。スケートとプライベートって全く関係ないし、僕はアイドルじゃない」と色をなしたこともあった。それ以降、表立って何か一つの報道に言及することはなかったが、会見では「訳もなく涙が流れてきたりとか、ご飯が通らなかったりとか、そういったことも多々あった」と苦しかった胸の内を吐露した。

 右足首の度重なる故障にも悩まされ、純粋に競技生活を楽しめた時期は少なかったのかも知れない。どの時代、どの試合、どの演技が最も自分らしくいられたのか、いつか聞いてみたい。ただ、この瞬間はフィギュアを心の底から愛しているんだろうなと感じたことが一度だけあった。それが北京五輪男子フリーが終わった8日後の2月18日、試合会場近くのサブリンクでの練習だ。貸し切り状態の氷上で音楽を流し、過去の演目を次々に演じ始めた。観客は大会スタッフ、ボランティアと報道陣だけ。