お田鶴の方は美しく優しく男勝りの気性だったので、城の侍も町民たちもよく言いつけにしたがっていた。
その頃、三河には徳川家康がおり、家康は何回も使者を出し、家康は「城を明け渡し、徳川方にしたがってはどうか。もし言うことを聞いたら、たくさんの褒美をとらせよう。」と言って誘ったが、
「女と思いあなどりおる。」ときっぱりはねつけ、聞き入れなかった。やがて、しびれを切らした家康は曳馬城を取り囲んだが。このとき、お田鶴の方は甲斐甲斐しく城兵を指揮して戦った。
だが家康の大軍相手に、城を支えることができなかった。やがて、覚悟を決めたお田鶴の方は緋縅の鎧に身を固め、薙刀を抱えながら、侍女を引き連れ、敵陣に切り込み攻めよせる敵兵を切り倒し進んだが、多勢に無勢だったため討死した。
家康は惜しい女性を殺したとその後、元浜町に墓を建てた。後に椿姫観音が建立されその場所はお田鶴の方が住まわれたという椿屋敷の跡だという]。