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例えば、今回の結婚の報告がそうだ。世界的なスーパースターとはいえ、フツーに「二人で幸せな家族をつくります。あたたかく見守っ
てください」くらいの軽さで良いはずなのに、そういう文言は「羽生結弦」の結婚報告には一切ない。「今日も、人生をかけて『羽生
結弦』のスケートを深め、一生懸命に努力を続け、進化していきます」とか「今後の人生も、応援してくださっている皆様と、スケート
と共に、全力で、前へと、生きていきます」などと「羽生結弦」プロジェクトの主が、一男としての羽生結弦の不祥事を謝っているか
のような重苦しい雰囲気に貫かれている。「個人としての羽生結弦が結婚しても『羽生結弦』は永遠なのでご安心ください」という宣言
にしか読めないのである。

 さらに言えば。もっと気楽でいいのにー! と思わせる緊迫感が「羽生結弦」にはある。羽生結弦さん本人だけでなく、「羽生結弦」
を前に緊張や感激のためか声を震わせる取材者などがいるほどだ。そういう空気があるのだろう。

 なぜそういう気持ちになってしまうかといえば、羽生結弦さん自身が、「羽生結弦」の大きさに振り回されながらも、「羽生結弦」
が「偉大なプロジェクト」であることを自覚し、それを躊躇なく語り続けてきているからだろう。実際、競技から退く記者会見で、
羽生結弦さんはこう言っている。

「僕にとって『羽生結弦』という存在は常に重荷です。すごく重たいです」「いつもいつも『羽生結弦』って重たいなと思いながら過ご
している」「もっといい『羽生結弦』でいたい」「『羽生結弦』という存在に恥じないように生きてきたつもりです」

 こんなことを20代の若者に言わせるスポーツって何なのだろう……と、ただの一般人の女としては不思議な気持ちになるのである。
あまりに可哀想ではないか。もはや、「フィギュアスケートが好きだから滑っている」という伸びやかさや軽さは「羽生結弦」にはない。東北を背負い、ジャパンを背負い、「羽生結弦」というプロジェクトを背負う真剣。それはスポーツというより、アスリートとしての「羽生結弦」を別人格におくことで自分を守り続けた一人の人間の、儀式めいた何か、に参加させられているような気持ちになってくるのである。