>>91
実際に沖縄人殺戮をやったのは、渡嘉敷村の古波蔵惟好村長や
久米島の女性教師の上江洲トシなど、沖繩マスコミ・沖縄公務員・沖縄教員
なのに、卑怯にも沖縄ゴキブリが日本軍に責任転嫁しているだけ。


■日本兵を騙して殺戮した沖縄人
http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/87610228.html
さて、自分のことも云わなければなりませんが、米軍が本部半島や今帰仁に上陸すると同時に、
本部村と今帰仁村の村民は米軍によって全て今の名護市、もとの久志村に収容されました。
故に久志村に行った人々は飢えてましたが、今帰仁や本部は無人の村となり、芋をはじめとする
食べ物が沢山ありましたので、私達は久志村の山を越えて、四、五日おきに本部や今帰仁の畑に
芋掘りに行ってましたが、久志村の山では南部から生き延びてきた日本の敗残兵が四、五人ずつ
グループをつくり200人近くいました。私達が歩いていると、飢えた日本兵がよく「芋を下さい」
と云って私達少年に頭を下げてきました。
ある日のこと、元学校の先生が、「山には日本兵がいるでしょう。その日本兵にこの手紙を渡
して下さい」と私達四、五人の少年が手紙を預りました。手紙の内容はよく分かりませんでした
が、私達は本部に芋掘りに行く時に、途中の山に立て籠もっている日本兵に渡したのです。
その翌朝、午前三時頃、激しい機関銃の音がするので、夜が明けてから行ってみると、きのう
私達が手紙を渡した日本兵です。後で知ったことですが、私達に手紙をことづけた元学校の
先生は手紙に「食べ物はあるから村まで取りにお出で」というような内容を書いていたようです。
翌朝、自分達がきのう手紙を渡した日本兵が田圃の中で死んでいました。昭和二十一年の秋で
した。沖縄は年に二度米が取れますが、二回目の稲が青々と茂ってましたので、秋だと私は思っ
てます。
沖縄人は物欲しさに、山に隠れている日本兵をおびき寄せ、米軍に狙い撃ちさせ、そのご褒美
に食べ物を貰った人達も沢山います。私もその一人です。だがそのような沖縄戦記を書く人は
沖縄には居ません。だが私は『沖縄戦語り歩き』という本に書いてます。私が一番今でも悲しい
思いをしているのは、四、五十人の村人が大きな壕に避難してました。一番奥には学校の先生
や村の有志達が一番安全な所に坐り、子供達やお年寄りは弾除けのように壕の入口に坐っている
訳です。そのようにして犠牲になった子供やお年寄りが沢山います。