1942年に日本兵、豪の看護師21人を銃殺する前に何を 真実追求の動き
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47986990
軍事史を研究するリネット・シルヴァーさんがこう言う「真実」とは、
1942年2月にインドネシア・バンカ島で、海の中へ歩かされ、機関銃で銃撃されたオーストラリア人看護師22人の身に起きたことを指す。
看護師たちは1人を除いて全員殺された。
「それだけでぞっとした。でも、殺害前に強姦されていたなんて、語るにはむご過ぎる真実だった」。
シルヴァーさんは、新著で詳しく書いた証言について、こう話す。



中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932
私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。
「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。
そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)
一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。
気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。
軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。
病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。
小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。
そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。