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■明治維新後の先島の人頭税
 1879年の琉球処分により、宮古島や石垣島が沖縄県となっても琉球王府の士族は
人頭税を取り続けました。廃藩置県の時、琉球王府は 「琉球は貧しいところだから、
国に治める税金を特別に低くしてほしい」と訴えたので、明治政府はこの訴えを聞き
入れて、沖縄県民からの税金を大幅に減額しました。
 ところが、このように琉球王府は税の負担が軽くなったにもかかわらず、先島からの
厳しい人頭税の取り立てを琉球士族は既得権益として続けたのです。その理由は、沖縄
の内情がよく分かってない明治政府は沖縄において旧慣温存策といわれる「とりあえず、
今までのやり方を続けて良い」 という態度をとったためです。
 1893年真珠養殖で宮古島をよく訪れていた中村十作という新潟出身の実業家や、
沖縄から製糖技術の指導のために宮古島に来ていた城間正安などの協力を得ることで、
宮古島や沖縄本島で多くの妨害を受けながらも宮古島の西里蒲(ニシザト・カマ 38歳)
と平良真牛(タイラ・モーシ 35歳)の2人の島人を連れて、東京で帝国議会請願書
「沖縄県宮古島々費軽減および島政改革請願書」 を届けることができ、ついに10年後
の1903年帝国議会は人頭税廃止を決めました。