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実際は、オール沖縄の沖縄教員どもが日本兵を殺したり、老人子供を殺した。戦後、援助金欲しさに
「殺したたのは日本軍人だー!」と卑劣なウソをついて、凶悪殺人鬼の沖縄教員どもは卑劣極まる
責任転嫁しているだけ。【オール沖縄】の沖縄マスコミ・沖縄公務員・沖縄教員は戦前から今に至るまで、
どーしようもない卑怯者の戦争犯罪者で、しかもウソの責任転嫁で済まして、反省も謝罪もしていない。

■沖縄人の見た沖縄戦②
http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/87610228.html
◇日本兵を殺した沖縄人
さて、自分のことも云わなければなりませんが、米軍が本部半島や今帰仁に上陸すると同時に、
本部村と今帰仁村の村民は米軍によって全て今の名護市、もとの久志村に収容されました。
故に久志村に行った人々は飢えてましたが、今帰仁や本部は無人の村となり、芋をはじめとする
食べ物が沢山ありましたので、私達は久志村の山を越えて、四、五日おきに本部や今帰仁の畑
に芋掘りに行ってましたが、久志村の山では南部から生き延びてきた日本の敗残兵が四、五人
ずつグループをつくり、200人近くいました。私達が歩いていると、飢えた日本兵がよく「芋を下さい」
と云って私達少年に頭を下げてきました。
 ある日のこと、元学校の先生が「山には日本兵がいるでしょう。その日本兵にこの手紙を渡して
下さい」と私達四、五人の少年が手紙を預りました。手紙の内容はよく分かりませんでしたが、
私達は本部に芋掘りに行く時に、途中の山に立て籠もっている日本兵に渡したのです。
 その翌朝、午前三時頃、激しい機関銃の音がするので、夜が明けてから行ってみると、きのう
私達が手紙を渡した日本兵です。後で知ったことですが、私達に手紙をことづけた元学校の先生は
手紙に「食べ物はあるから村まで取りにお出で」というような内容を書いていたようです。
 翌朝、自分達がきのう手紙を渡した日本兵が田圃の中で死んでいました。昭和21年の秋でした。
沖縄は年に2度米が取れますが、2回目の稲が青々と茂ってましたので、秋だと私は思ってます。
 沖縄人は物欲しさに、山に隠れている日本兵をおびき寄せ、米軍に狙い撃ちさせ、そのご褒美に
食べ物を貰った人達も沢山います。私もその一人です。だがそのような沖縄戦記を書く人は沖縄には
居ません。だが私は『沖縄戦語り歩き』という本に書いてます。私が一番今でも悲しい思いをしている
のは、四、五十人の村人が大きな壕に避難してました。一番奥には学校の先生や村の有志達が
一番安全な所に坐り、子供達やお年寄りは弾除けのように壕の入口に坐っている訳です。
そのようにして犠牲になった子供やお年寄りが沢山います。