学徒や従軍看護婦は日本軍の各部隊が恣意的に召集した

北谷町史 
(12)女子挺身隊員
http://www.chatan.jp/smph/choseijoho/heiwagyosei/senjitaikensha/h13_senjitaikensha/1.html
>中部西海岸付近に配備していた賀谷支隊をはじめ各隊は兵力の不足から沖縄戦突入直前から多くの少年少女を含む民間人を恣意的に徴用し、義勇隊・女子挺身隊・女子炊事班・女子救護班という名で、地雷敷設・弾薬運搬・戦闘部隊への食事運搬負傷者の運搬など、後方業務を越えた戦線業務に従事させていた。
平安山の「海軍十一砲台」には喜友名小ヤードゥイから14名の女子青年が3月24,5日頃徴用され、海軍女子挺身隊として編成され、軍服も支給されて救護に当たった。また、越来村山内に布陣した「機関銃中隊」には3月27・8日の夜山内の集団壕に避難していた平安山ヌ上、下勢頭(シチャーシドゥ)の女子青年6名が、兵隊同様に俸給も出すし、死んだら靖国神社に祀るといわれ女子挺身隊に編成され、戦車破壊用の急造爆雷や弾薬運搬・炊事に従事させられた。
20名のうち海軍挺身隊2名、陸軍挺身隊1名の3名だけが負傷しながらも生き残った。戦後、遺族の手で集骨された遺骨を納めた『護国女子挺身隊之碑』が建立された。遺骨はその後に「国立戦没者墓苑」に移された。