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すなわち、 敵対するソ連を牽制するため、 その隣国である中国と大局的な
観点で手を組み、冷戦を勝ち抜くという 外交・保戦略である。

1970年代に 電撃訪中を果たした大統領補佐官、 ヘンリーキッシンジャーが
リチャードニクソン大統領とともに描いたとされる、 この一大戦略を着実に
踏襲していた カーター政権の懐に ケ小平は大胆に飛び込んだ。

中国の軍事的台頭への懸念が強まる 21世紀の今日において、 米中両国が
軍事技術交流に踏切ることはほぼありえない。 だが、対ソ連という意味で
米中双方が手を組んでいた当時の世界情勢において、これは画期的なアイデア
として 米中両国で広く支持されていたことも 忘れてはならない。

実際、カーター・ケ小平の合意を受け、1980年初めに 現状視察のため訪中した
ペリーは当時、中国側に「行きたい所は全て足を運ばせて欲しい 」と要請。
ペリーによれば、その際、中国側も二つ返事でペリーの要求を受け入れ、当時から
中国は虎の子としていた 大陸間弾道ミサイル( ICBM) の 製造工場から 戦略
爆撃機、 戦車の製造工場、 内陸部の ミサイル実験場、 さらに最新鋭のレーザー
研究施設やコンピューター研究施設にまで ペリーら米側訪中団一行を案内している
( ウィリアムペリー「 核なき世界を求めて 」)。