記事投稿日:2023/06/04 06:00 最終更新日:2023/06/04 14:16
『女性自身』編集部

目の前のキッチンでパワフルに働いている女性が末期がんとは、あぜんとするしかない。しかも“店”を始めたのが余命を宣告された2カ月後とは……。

転職、スピード婚、子育てで発揮してきたそのバイタリティは、がん告知されても変わらない。体がいつどうなるかわからないけど、走り続けると覚悟を決めたのだ。

子どもたちは将来「キッチンカーのクレープ、うまかったよな」と思い出してくれるーー。

秋吉さんは1977年、佐賀県佐賀市に生まれた。幼いころから活発で負けず嫌い。当時の夢は「自分の店を持つこと」。飲食店を営んでいた叔母に憧れていたという。

「まだ、バブルが弾ける前で、叔母はとても羽振りがよくて。『由紀ちゃん、いまの時代、女性でもこうやって仕事ができるし、稼ぐことだってできるのよ』って」

商業高校を卒業後、県外の調理師専門学校に進みたかった。だが、父の猛反対にあう。生まれ育った佐賀には依然、女性に対する偏見が色濃く残っていた。

「父は『女が学校なんか行かんでよか。頼むから20歳までは家におってくれ』と。私は、すごくばかにされた気がしたのを覚えています」

仕方なく、秋吉さんは地元の農協に就職。2年間勤めたのち、退職し一人暮らしを始めた。

「いろんな仕事を掛け持ちしながら自分で学費を稼いで、夜間の調理師学校に通いました」

22歳、念願だった調理師の資格を取った秋吉さんは大阪に。飲食店を何店舗も営む、社員寮もある会社に、正社員として就職した。

「最初はホール、その後は調理場に入って5年ほど勤めました。営業時間は朝まで。250席が3回転するような忙しい店。朝の9時過ぎに寮に戻って、午後2時にはまた出勤。むちゃくちゃな生活でしたが、体力には自信あったから。たいへんでしたけど楽しかった」

やがて、叔母から「店を譲る」と言われ、佐賀に戻ったのが27歳のとき。しかし、バブルは遠い昔で、街のにぎわいはすっかり消えていた。

「驚くぐらい人がいなかった。いるのはお年寄りばかり。ここでの商売は無理、そう思いました」

そこで秋吉さんは方針転換。「高齢化が進む故郷で先々、商売をするにしても、まずは勉強」と、介護の職に就いたのだ。

「ヘルパー2級の資格を取って、まずは老人ホームで働いて。次いで佐賀医大附属病院の、調理師の仕事に就きました」




■体力には自信があったし「用心するのは40歳から」だと思っていた38歳のとき、がんに

秋吉さんが結婚したのは30歳のとき。お相手は、1歳上の敬介さん(46)。出会いから挙式まで1年足らずのスピード婚。そして、31歳から2年ごとに、長男・龍青くん(14)、次男・帝駕くん(12)、三男・剛宗くん(10)と3人の子宝にも恵まれた。

体力には自信があった。もちろん女性だから、乳がんという病いは気にはなったが「用心するのは40歳から」、そう思っていた。なにより、子育てと並行して仕事も続けていて「忙しくて、気が回らなかった」。ところが……。それは38歳の夏のこと。

「スキルス性の胃がん、ステージ4です」

胃痛で病院を受診した秋吉さん。医師から告げられた検査結果に、言葉をなくした。

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「とっさに口を突いて出たのは『困ります』でした。忙しい職場は人手が足りなくて。自分の病気のことをすぐには呑み込めないなか、いま、私が休むわけにはいかない、その思いが先に立ったんです」

当時、秋吉さんは介護施設の調理師として働いていた。わずかなスタッフで毎日、180人の高齢者の食事を用意していた。いっぽう、プライベートでは次男の食物アレルギーを就学までに治してあげたいと、家族の食事にも気を揉んでいた。さらに、夫の父親が急な病いに倒れ入院。連日、体の弱い義母を連れ、見舞いにも通った。そんななか、胃痛に襲われて「ストレスで胃潰瘍になった」と思い込んでいたのだ。

急逝した義父の四十九日の法要を済ませ、近所の病院で胃カメラの検査を受けた秋吉さん。結果、医師が告げたのが前述の「ステージ4の胃がん」。同時に乳がんも見つかった。医師からは「明日にでも胃の全摘出手術を」と促された。

「最初は先生の言葉の意味が、本当にわからなかった。『私ががん? 噓よ、こんなに元気なのに』って」

     ===== 後略 =====
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