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ロシア・ハバロフスクで同国製自動車ラーダの運転の準備をするプーチン氏(2010年)

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、12日にテレビ放送されたドキュメンタリー映画で、1991年の旧ソヴィエト連邦崩壊は残念だったとして、崩壊後しばらくは生活苦からタクシーの運転手として働いて収入を補っていたと明らかにした。

ソ連崩壊後、多くのロシア人が困窮し、新たな収入源を模索した。プーチン氏は当時、無認可タクシーを運転する道を選んだのだという。

プーチン氏はドキュメンタリー映画の中で、ソ連解体は歴史的なロシアの崩壊だったと説明した。

ソ連の構成国だったウクライナとの国境付近には、ロシアが軍兵士9万人以上を集結させている。侵攻も懸念される中、プーチン氏の発言の真意をめぐって、さまざまな憶測が飛び交いそうだ。

ロシアは侵攻の意図はないと表明している。一方で、ウクライナによる挑発行動がみられると批判。また、北大西洋条約機構(NATO)が東方に拡大しないことの保証を求めている。

「車を使って臨時収入」
プーチン氏はドキュメンタリー映画「ロシア、最新の歴史」の中で、「ソヴィエト連邦と呼ばれていた歴史的なロシアが、あれで崩壊してしまった」と発言。さらに当時の欧米は、ロシアがさらに崩壊するのは時間の問題だという認識だったと述べた。

プーチン氏がソ連の崩壊を悲劇だと考えていることは、広く知られている。だが、当時の個人的な苦境について話すことは、これまでなかった。

プーチン氏は、「臨時収入が必要な時もあった」、「車を使って、個人運転手として、臨時収入を得ていた。率直に言って、こうした話をするのは不愉快だが、残念ながらそれが現実だった」と話した。

当時のロシアではタクシーはほとんど走っておらず、自分の車に見知らぬ人を乗せて、家計をやりくりした人は多かった。救急車などの業務用の車両をタクシーとして使い、臨時収入を得る人もいた。

プーチン氏はソ連の情報機関、国家保安委員会(KGB)の職員だったことが知られている。

しかし1990年代前半には、サンクトペテルブルクのアナトリー・サプチャーク市長(当時)の事務所で働いていた。1991年8月にミハイル・ゴルバチョフ書記長(当時)の政権に対するクーデターが発生したのを受けてKGBを辞めたと、プーチン氏は以前から説明している。このクーデターがソ連崩壊へとつながった。

<解説> 当時はさまざまな人が運転手に――パトリック・ジャクソン、BBCニュース

たしかに私も、夜間に車庫に戻るバスに乗ったことはあった。だが、タクシー代わりに救急車を使うのは、自分にとって一線を超えていた。しかし1990年代のロシアには、「タクシーとしても」稼働している車は珍しくなかった。

モスクワで当時知り合ったロシアの若者は、誰もがそういう車を利用していたようだった。しばらくすると、車を所有する所帯持ちのロシア男性は全員、非公式のタクシー運転手(「爆撃手」と呼ばれた)として働いて副収入を得ていたようだった。

私が学生として初めてソ連を訪れた1989年には、そうした車をめぐって2つの不文律があった。同時に2人以上の人と乗らない。そして、出発前に料金を取り決めておく。この2点だ。

当時はともかく、認可タクシーが足りなかった。無認可タクシーを利用する上で最大のリスクはもっぱら、シートベルトを着けようとして、マッチョな運転手の気分を害することだった。