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家康「しかみ像」の謎 「三方ケ原の戦い」と無関係、仏像模した説も [きつねうどん★]
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2022/01/16(日) 17:49:13.91ID:CAP_USER
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しかみ像として伝わる肖像画を模して作られた石像。家康の出身地である愛知県岡崎市の岡崎公園内にある(筆者撮影)

 三谷幸喜脚本のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が好調なスタートを切ったばかりではあるが、NHKはすでに2023年放送の大河ドラマ『どうする家康』の制作を決定し、先月末には脚本家や出演者らが集っての記者会見が行われた。令和の時代に新たな家康像を演じるのは、アイドルグループ嵐の松本潤。今年から来年にかけては、各地で徳川家康にまつわるイベントなどの盛り上がりが予想される。そうしたなか、家康を描いた有名な肖像画にまつわる定説が覆る事態が起きているという。歴史作家の島崎晋氏が解説する。

 * * *
 徳川家康は江戸幕府の創業者。その家康の肖像画は複数現存するが、記憶に残るという点では、頬杖をしながらしかめっ面をした「徳川家康三方ケ原戦役画像」、俗に「しかみ像」と称されるものが群を抜いているのではなかろうか。

 その「しかみ像」について、近年、定説が覆り、静岡県浜松市や愛知県岡崎市の展示施設などでは、従来掲げていた解説を撤去したり、展示の見直しを検討したりするなどの動きが出ているという(『東京新聞TOKYO Web』1月4日付「徳川家康「しかみ像」は慢心の戒めに描かせたのではなかった? 三方ケ原の負け戦とは無関係とする新説」より)。

 定説として語られてきた「しかみ像」の由来はこうだ。まだ織田信長も存命な戦国時代末期、家康は重臣たちの反対を押し切り、甲斐の戦国大名、武田信玄みずから率いる大軍に戦いを挑んだ(三方ケ原の戦い)。案の定、大敗北を喫し、命からがら逃げ戻った直後、慢心への戒めとして家康自ら絵師に描かせたのがこの「しかみ像」である──そう語られ、逸話としての面白さも重なり、小説やドラマでも長らく踏襲されてきた。

 ところが、2015年8月、尾張徳川家伝来の品々を中心に収蔵する徳川美術館の学芸員(当時)だった原史彦氏(現、名古屋城調査研究センター主査)が徳川美術館で開かれた講演会で「しかみ像」についての従来説を覆す新説を公表した。前掲の東京新聞記事によると、その概要は以下の4点にまとめられる。

【1】(家康の9男・義直を祖とする徳川御三家のひとつ)尾張徳川家の台帳記録によれば、「しかみ像」は、(同じく御三家の)紀伊徳川家の従姫(よりひめ)が尾張徳川家9代宗睦の養子、治行と結婚した時(1780年)に持参したものとみられるが、記録には「東照宮尊彰」とあるだけで、戦いに関する記述はない。

【2】三方ケ原の戦いに関する古文献を調べても、慢心の戒めとして合戦直後の姿を描かせたとする記述は一つも見当たらない。

【3】それらしい最古の記録は、1910年に名古屋開府三百年記念会が発行した『尾張敬公』で、そこには敬公こと初代尾張藩主・徳川義直が自身と子孫への戒めのため、家康が三方ケ原の戦いで敗れた姿を描かせたと記されており、このことは徳川美術館が開館した翌年の1936年1月に報道され、広く世に知られるきっかけとなった。

【4】1936年1月14日付の地方紙に、徳川美術館を創設した徳川義親らによる座談会の模様と、「子孫への戒めのために残したものだと思います」という義親のコメントが掲載された。

 前掲の東京新聞記事の取材に答えた3人の専門家は、次のような見解を示している。「徳川家の権威が薄れていく中、箔を付けるため、三方ケ原の戦いと結び付けたのでは」(新説提唱者の原氏)、「武神として礼拝向けに描かれたと見なす方が合理的」(静岡県富士山世界遺産センター教授の松島仁氏)、「(描き方から)家康時代の作ではないだろう」(国際日本文化研究センター教授の磯田道史氏)。

 なかでも松島氏は、片手を頬に当て、片足を組んだ仏像のような「しかめ像」のポーズから、家康の神格化のため描かれたとする。また磯田氏は、「後世になって、三方ケ原の戦いで大敗した家康の苦境をイメージして描かれた絵画の可能性はゼロになったわけではない」としている。果たして真実はどうであろうか。
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2022/01/16(日) 17:49:21.37ID:CAP_USER
像は家康時代のものではないとはいえ、徳川家康を描いたもので間違いなさそうだが、問題はその表情とポーズである。仏像のようなそのポーズから、奈良飛鳥の中宮寺にある菩薩半跏像を連想した人が多いのではないか。飛鳥美術の最高傑作のひとつとも喧伝される美しい仏像(国宝)である。

 ただし、菩薩半跏像が右の足を左の膝の上に置き、右手を曲げて、指先でほのかに頬に触れているのに対し、「しかみ像」は左の足を右の膝の上に置き、左手を曲げて、手のひらを頬に当てている。左右が真逆なのである。清らかな気品漂う菩薩半跏像なら納得できるが、しかめっ面を崇めようというのは、少々無理がありはしまいか。

 百歩譲って、武家ならでは発想のもとに後世描かれたものだとしても、他の戦国大名や江戸時代の殿様が同様の肖像画を描かせた事例を筆者は寡聞にして知らない。現存する肖像画は座像か騎馬像が基本で、座像の場合は胡坐をかき、両手は腰の位置、正面よりは右斜めから描いたものが多い。顔をしかめるどころか、変則ポーズを取ることもない。このことは、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代に限らず、日本の美術史上を通しても言えることではないか。

 結局、明らかになったのは三方ケ原の戦いと「しかみ像」を関連づける根拠が何一つないというだけ。誰が、いつ、何を意図して描かせたかは謎のままで、有力な手掛かりがあそうなのは、やはり従姫の実家、紀伊徳川家(上記【1】参照)である。「しかみ像」の謎を解く鍵が、その価値に気づかれないまま眠っている古文書が、まだたくさんあるかもしれない。専門家による今後の探求に期待したい。

【プロフィール】
しまざき・すすむ/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)など著書多数。最新刊に『鎌倉殿と呪術 怨霊と怪異の幕府成立史』(ワニブックス)がある。

https://www.news-postseven.com/archives/20220116_1719864.html
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2022/01/16(日) 17:51:05.88ID:LK/QEfPo
食い逃げに失敗したときの顔だろ
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2022/01/16(日) 17:53:00.61ID:nR8Ev48T
全盛期ならまだしも今ごろ松潤大河の主役にすんの
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2022/01/16(日) 17:53:50.04ID:QK8L36cb
ウンコ💩漏らした説は本当なの?
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2022/01/16(日) 18:22:48.63ID:Pnp6cnec
ウンコ食う焼き味噌狸
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2022/01/16(日) 18:44:38.76ID:VY3A1dnF
つまんねー事言うなよ
歴史は面白さで書かれる
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2022/01/16(日) 19:07:16.13ID:QvXm1zMI
「織田徳川で挟み撃ちにするからいったん城にこもれ。お前は気が短い」と信長にくぎを刺されたのに無視。
でも実はプロレスで武田と内通の工作がバレた信長への言い訳。偽装のために描かれた。
信玄のために浜松城を開城してるしね。信玄が死んだから家康はこれはまずいと思ったんだろうね。
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2022/01/16(日) 19:37:57.95ID:Ti4E4ei5
これは味噌じゃ!
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