X



探検家・間宮林蔵の名言「樺太は地続きになどなっていない」 [きつねうどん★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001きつねうどん ★
垢版 |
2022/02/04(金) 20:39:55.10ID:CAP_USER
日本史に足跡を残した偉人たちは、その生涯の中でさまざまな名言を遺している。江戸時代後期に探検家として活躍した間宮林蔵の名言とは、一体どのようなものだったのだろうか。

伊能忠敬から測量技術を学んだ後、幕府に命じられ樺太へ

https://www.rekishijin.com/wp-content/uploads/2022/01/%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%91.png
間宮林蔵肖像『東韃紀行』/国立国会図書館蔵

 江戸時代後期の探検家・間宮林蔵(まみやりんぞう)。伊能忠敬から測量技術を学んだ後、幕府に命じられて樺太へ渡り、探検、調査を推し進めた果てに出した答えが、このひと言であった。つまり、樺太が半島などではなく、独立した島であることを確認したというのだ。

 今でこそ、それは当たり前のことであるが、当時は大半が陸続きで、北部に小さな島があるだけとみられていただけに、この言葉の持つ意義は実に大きかった。島となれば、ロシアが日本との交渉なしに、自国の領土であると容易に主張することができなかったからである。

 これを表明したのは、文化6(1809)年に行った樺太探索の後のことであった。前年度は松田伝十郎(まつだでんじゅうろう)に従っての探索であったが、この年は林蔵が主体となって北樺太西岸のナニオーまで到達、樺太が島であることを確認したというのである。大陸との間に立ちはだかる海峡の名が「間宮海峡」と呼ばれるようになったのも、この時の林蔵の発見が元になったものだという。

「間宮海峡」と呼ばれるようになったのは来日していた医師シーボルトのおかげだが
 名付け親は、医師として来日していたシーボルトであった。もちろん、林蔵の偉業は評価され、文化8(1811)年には松前奉行支配調役下役格に昇格したのは、当然のことというべきだろう。

 しかし、幕府は林蔵のこの探検家としての非凡な能力を、その後、ある特殊な役柄として利用していったようである。それが、隠密という、まさにスパイそのものであった。

 文政11(1828)年、日本地図を不法に持ち出そうとしたシーボルトを告発したのが林蔵であったというのも、何やら因縁めいて興味深い。

https://www.rekishijin.com/wp-content/uploads/2022/01/%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%92-1-e1643618485448-691x1024.png
写真2)シーボルトに対する詰問書の最後の一葉 『和蘭雑話』/国立国会図書館蔵

 隠密に転身した後の林蔵は、石州浜田藩の密貿易の実態を掴んで検挙に至らせたり(竹島事件)、薩摩藩の密貿易の内偵にも取り組んだ。潜入が困難と見なされていた薩摩では、ふすま職人に化けて3年間も身分を偽って暮らし続けたというから恐れ入る。

 ともあれ、前半生は探検家、後半生は隠密として尽力。立場が大きく異なるとはいえ、ともに調査が目的とするところは同じ。生涯、調査に明け暮れた人生であった。

https://www.rekishijin.com/17671
0002Ψ
垢版 |
2022/02/04(金) 20:41:39.12ID:kcaLcQEC
>>北樺太西岸のナニオー
0003Ψ
垢版 |
2022/02/04(金) 20:47:19.36ID:hgzm0KE5
>>1 今の中国やロシアの論法なら樺太の領有権は日本にある
0004Ψ
垢版 |
2022/02/04(金) 21:20:07.92ID:sqVfzdb1
あーはいはい、千石のことね
0005Ψ
垢版 |
2022/02/04(金) 21:30:16.07ID:fJTVA4Lb
小笠原と東京港区は大陸棚で繋がっている
0006Ψ
垢版 |
2022/02/04(金) 21:31:29.30ID:2a2yZq++
>>4
こんな事を言い出すオッサンが俺以外にいるとは…
0007Ψ
垢版 |
2022/02/04(金) 21:35:44.80ID:sqVfzdb1
>>6
あの中に福本清三も混じってたのまで憶えてる
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況