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佐渡金山に強制徴用された父親の若いころの写真を眺めるキム・グァンソンさん。ヨ・ソングク記者

「父は佐渡金山で体を壊して故国に戻った。その後父が病んでいた記憶だけ残っている」。

2日に忠清南道論山(チュンチョンナムド・ノンサン)の自宅で会ったキム・グァンソンさん(80)は父キム・ジョンウォンさんの青年時代の写真を見ながら話した。父親が佐渡金山に動員された証拠である「職業能力申告手帳」などを出しながら「三一節に訪ねてきた子どもたちを見て父を思い出した」とした。

◇金鉱で働きじん肺に「健康失って帰国」

キムさんによると、1912年生まれの父親は面書記らから工場などで稼げるという話を聞き1940年に論山から佐渡金山に徴用された。

「厳しい祖母の下で母はつらい結婚生活を送った。それを気にしたのか父は兄と姉と母を佐渡金山に連れてきた。少しして母が私をみごもった。そして私は佐渡金山で生まれた。1943年ごろにじん肺が激しくなった父は帰国し論山に戻った」。

彼ら家族はどうして佐渡金山で会うことができたのだろうか。日帝強制動員平和研究会代表研究委員のチョン・ヘギョン博士は「1940年初めに脱出を試みた徴用者は多かった。家族がいれば逃げず生産性が高まるとして(日帝は)一部家族を連れてこさせた。自由な状況で労働者が家族を連れてこられたのでは決してなかった」と説明した。

チョン博士によると、1943年に日本政府は軍需物資調達のため金鉱山を銅鉱山に転換した。チョン博士は「佐渡で銅と鉄が生産された。400人を他の地域に送り戦争のために岩穴を掘らせ、労働力を失った人の一部を朝鮮に送り返した。その過程でキムさんの父は解放前に帰ってきたとみられる」と話した。肺を患ったキムさんの父は賃金をまともにもらえずに追い出されるようにして帰ってきた。

◇1時間半山道を出勤「生きて出てこられるだろうか」

キムさんの父と同じ年、同じ地域から動員されたイム・テホさん(故人)の口述記録にも佐渡金山の惨状がにじみ出ている。佐渡の奥地に宿舎があり徴用者らは毎日1時間30分山道を登って作業場に通ったという。雪がひざまで積もる冬の出勤はもっとつらかった。

地下鉱石採掘をしていたイムさんの現場では毎日落盤事故が起きた。「きょうは生きて出てこられるだろうか」と毎日気をもんだ彼も足場から落ちて負傷する。生きて故郷に帰れないと考えた彼は脱出を敢行し広島に到着する。イムさんは「真の謝罪を受けることを願う」という言葉を残したが1997年に日本で死去した。