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創業1444年!世界最古の企業「金剛組」長寿の秘密 [きつねうどん★]
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2022/04/21(木) 06:51:54.35ID:CAP_USER
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世界最古の企業「金剛組」の創業は、飛鳥時代までさかのぼります(写真:JACK SWING/PIXTA)

世界最古の企業の創業は、聖徳太子の時代までさかのぼる。寺院建設のために設立された大工集団、金剛組だ。なんと現在の当主は41代目を数えるほど、1000年を超える長い歴史を生き延びてきた。
その理由は、圧倒的な技術力と歴代経営者たちの器にある。さらにそれらをもとに得た信用という財産もある。詳しい歴史を『何があっても潰れない会社』から抜粋する形で追ってみよう。
飛鳥時代、百済から渡来した工匠が創業
日本には歴史の古い企業が多いが、世界で一番古い企業が日本にあることをご存じだろうか。世界で一番古い会社といわれているのは、大阪で社寺建築を手掛ける金剛組だ。創業が578年なので、1400年以上も続いている。

金剛家には今に伝わる系図がある。歴代当主の名前と業績が書かれていて、広げると3メートル以上になるという。

金剛家によると、聖徳太子は四天王寺を建立するため578年に朝鮮半島の百済から「金剛」「早水」「永路」という3人の工匠を日本に招聘した。その一人「金剛」が金剛組初代の金剛重光だ。当時の日本には本格的な寺院を建築できる技術者がいなかったため、仏教の先進国であった百済から技術者を呼び寄せた。

四天王寺は日本初の官立寺院だ。538年の仏教伝来からそれほど年月が経過していないころであり、豪族が私的に建立した寺院はあっても、国家事業として寺院が建てられるのは初めてのことだった。

『日本書紀』によれば、親仏教派の蘇我氏と反仏教派の物部氏が武力衝突した際に、蘇我氏に従軍していた厩戸皇子(後の聖徳太子)は仏教の守護神である四天王の像を彫り、「もし、この戦いに勝利したら四天王を安置する寺院を建立する」と願いを立てたという。その戦いは蘇我氏の勝利となり、聖徳太子は四天王寺の建設に本格的にとりかかる。

五重塔や金堂といった四天王寺の主要部分が完成したのが593年。寺院建築の技術者はとても貴重な存在だったので、その後、「早水」と「永路」はそれぞれ大和(奈良県)と山城(京都府)へ移住して、さまざまな寺院の建立に貢献したようだ。現存する世界最古の木造建築である法隆寺の創建にも関与したという説があるが、「早水」と「永路」のその後に関する記録は残っていない。

一方、金剛重光は四天王寺を護ることを命じられ、その子孫は四天王寺お抱えの宮大工として1400年以上歩み続けることになる。金剛家の当主は代々、四天王寺から「正大工職(お抱え大工)」という称号を賜り、現在は41代目。

1400年間には天災や戦災に見舞われることが多く、五重塔だけでも7回の焼失や倒壊があり、現在の五重塔は8代目である。

四天王寺から扶持米を受給
度重なる天災や火災で、古い資料はあまり残っていないが、五重塔は平安時代に落雷や火事で2回ほど焼失と再建を繰り返した。

1576(天正4)年には織田信長の本願寺攻めの際、織田軍に火をつけられて四天王寺全体が焼けてしまった。1600(慶長5)年に豊臣家の支援により4代目五重塔が再建されたが、1614(慶長19)年には大坂冬の陣の戦いに巻き込まれて焼失する。1623(元和9)年に徳川秀忠によって5代目五重塔やその他の建物が再建されたが、1801(享和1)年の落雷で五重塔や金堂など、主要な建物が焼けてしまった。その後、1813(文化10)年に6代目五重塔などが再建される。

焼失のたびに再建できたのは、四天王寺が多くの領地(寺領)を持ち、裕福だったからだ。金剛組は江戸時代までは四天王寺お抱えの宮大工であり、毎年決まった扶持米(手当)を得ていた。四天王寺という大きくて裕福な顧客を持つため、新たな仕事先を探す必要はなく、数多くの伽藍整備を請け負うことで経営は安定していた。

四天王寺から請け負う仕事を完璧にこなすために技術習得と技術継承に努めた結果、高度な技術が集積された。そして、たびたび再建という大工事を請け負うことで、さらに技術が磨かれた。焼失は良いことではないが、再建工事は高度な技術の維持・継承にメリットがあったといえる。
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2022/04/21(木) 06:52:28.04ID:CAP_USER
明治維新後に訪れた経営危機
天災や戦災に巻き込まれることはあったが、創業から江戸時代まで金剛組の経営は比較的安定していた。しかし、明治維新後に経営危機が訪れる。明治政府は1868(明治1)年に神道を国教化するために「神仏分離令」を発令する。

江戸時代の仏教寺院は、幕府の保護を受けて幕藩体制の一翼を担っていた。これに対して明治政府は、国家公認の宗教を江戸時代の仏教から神道に転換させることにしたのだ。寺領を没収された寺院は困窮することになる。四天王寺も寺領を失い、金剛組へ扶持米を支給できなくなったのみならず、安定的な伽藍整備を金剛組に発注することも難しくなった。

それまで金剛組は四天王寺からの仕事のみを請け負っていたが、他の寺社の仕事も請け負わざるをえなくなる。四天王寺のお抱え宮大工という信用力、高い技術力を武器に仕事を獲得したのだろうが、四天王寺以外の寺院への営業には相当な苦労があったはずだ。

明治維新後は、他の多くの宮大工家が西洋建築に乗り出し、政府や軍隊の工事を受注して成長していった。一方、金剛組は扶持米の給付は得られなくなったものの、四天王寺を中心とした寺社からの仕事を受注することで経営を維持していた。工事のエリアも大阪にとどまっていた。

一族を悲劇から救った稀代の女棟梁
神仏分離令による混乱が落ち着きつつあった金剛組を昭和恐慌が襲う。1929(昭和4)年の米国株式暴落は、当時の日本経済にも深刻な影響を与えたのだ。当時の当主は第37代・金剛治一。弱冠21歳にして正大工職を拝命するほど高い技術を持ち、当時の大阪で名棟梁として名を知られる存在だったという。

しかし、治一は無類の職人気質で、今でいうところの営業活動などさらさら念頭になく、自分が納得できる仕事しか請け負わなかった。仕事があるうちはそれでもよかったのだが、昭和恐慌が始まると状況は悪化。仕事の依頼は急減した。こうした状況になっても職人気質で勝ち気な性格の治一は、頭を下げて営業をすることができない。寺や神社を回って修繕すべき場所を見つけたり、「大きな仕事があったらやらせてください」と声をかけたりする程度のことは治一以前の当主でもやっていたが、治一にはできなかった。

経営は悪化の一途をたどり、1932(昭和7)年に悲劇は起きた。治一は経営不振の責任をとって四天王寺境内にある先祖代々の墓の前で自殺してしまったのだ。白装束に身を包んでいたという。享年55歳。

名門宮大工家の現役正大工の自殺は世間を賑わせ、新聞各紙でも大々的に報道された。金剛組や四天王寺の関係者には大きな衝撃が走ったが、この危機的状況を救ったのは治一の妻よしゑだった。よしゑは四天王寺に嘆願して女棟梁として第38代を継ぎ、先代とは打って変わってトップセールスに走り、経営再建への道筋をつけた。

女性が棟梁になり、正大工職を継ぐというのは前例のないことだったが、四天王寺は嘆願を受け入れた。金剛組の技術力、金剛組と四天王寺の長年にわたる信頼関係、よしゑの熱意が評価された。

1934(昭和9)年、室戸台風のため五重塔が倒壊。四天王寺から金剛組に再建の命が下った。材木の調達だけで4年もかかるという難工事だったが、1940(昭和15)年に7代目五重塔が完成した。復興工事による収入で会社経営は回復した。

マスコミは、再建工事の中心となったよしゑの活躍を大々的に取り上げ、戦後にはテレビドラマ化された。

よしゑの活躍は五重塔再建にとどまらない。金剛組は第2次大戦中に会社存続の危機に直面する。第2次大戦中に経済統制が強化され、「企業整備令」の公布により中小企業の整理統合が進められた。そして、金剛組も整理統合の対象になってしまったのだ。

伝統技術や宮大工の離散を恐れたよしゑは、役所と掛け合って軍事用木箱を製造することを条件に対象からの除外を勝ち取った。もし、時代の風に押されて整理統合を受け入れていれば、そこで1400年の歴史と伝統は潰えていただろう。

よしゑ以前の棟梁は、自ら現場に出向き指揮をしながら営業や社内管理など経営管理も行っていた。しかし彼女の登場により、現場の技術を知らない女性が棟梁になることで、技術と経営の分離が進んだ。
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2022/04/21(木) 06:52:52.47ID:CAP_USER
終戦後しばらくの間は仕事が少なかったが、1950(昭和25)年の文化財保護法の施行がきっかけとなって、神社仏閣の再建ブームが到来する。再建を担う宮大工を抱えている建設会社が少なかったため、金剛組には四天王寺以外の寺社から注文が殺到した。技術者集団としての面目躍如といったところだ。

会社の近代化、拡大路線へと舵を切った39代目
1948(昭和23)年、後の39代目当主となる利隆が入り婿として金剛家に入る。利隆は福井高等工業学校(現・福井大学)を卒業後、準大手ゼネコンの熊谷組に入社し、長姉の夫が金剛組で働いていたことが縁でよしゑの三女と結婚した。

利隆はよしゑと共に会社の近代化に取り組み、1955(昭和30)年に金剛組を「株式会社金剛組」に改組した。代表取締役社長のよしゑが資金管理を、専務の利隆が現場管理を担当した。

このころは組織だけでなく、工法にも大きな変化があった。戦後は火災対策が重視され、神社仏閣でも鉄筋コンクリート建築が流行する。金剛組もコンクリート施工を開始し、1954(昭和29)年には四天王寺の南鐘堂を手掛けた。鉄筋コンクリート工法でも、日本建築の優美さや木の暖かみを損なわない独自の工法を開発したのだ。

近代的な組織となった金剛組は、コンクリートを活用した新工法を持ったことで、拡大路線に舵を切る。マンションや老人ホーム、阪神・淡路大震災の復旧工事なども手掛け、1990年代後半には売上高の6〜7割が社寺ではないコンクリート建築となった。

「金剛組を潰したら大阪の恥や」
金剛組は成長路線をひた走ったが、売上高は1999(平成11)年の130億円をピークにどんどん低下していく。利隆は業績悪化の原因を、その著書のなかで「不得手な分野に手を出してしまったからだ」と述べている。

木造の社寺とコンクリートの一般建築では工期設定、コスト管理、営業手法がまったく異なるが、金剛組は木造社寺を建築する感覚のまま、コンクリート建築を行っていた。コンクリート建築の分野では大手ゼネコンがライバル。金剛組は大手ゼネコンと同品質の建物を作ることはできても、仕入れ価格や工事費の競争では勝つことはできなかった。赤字工事が多く借金が膨れあがった。役員給与はもちろん、社員のボーナス、給与をカットしたあげく2004(平成16)年には希望退職を募らなくてはならない状況に追い込まれてしまった。宮大工への工賃も数回引き下げざるをえなかった。

会社更生法と民事再生法、どちらを申請したらよいのか、切羽詰まる状況となった2005(平成17)年。東証1部上場の中堅ゼネコン松建設が支援の手を差し伸べた。金剛組と松建設はどちらも大阪が地盤であるし、メインバンクがりそな銀行だった。りそな銀行が松建設に金剛組の救済を頼んだところ、松孝育会長(当時)が「金剛組を潰したら大阪の恥や」と応じたのだった。

2005年11月、松建設が全額出資して、新しい金剛組を設立。2006(平成18)年1月、従来の金剛組から新しい金剛組へ営業権を譲渡するとともに、従業員の大半を移籍させ、宮大工との関係もすべて維持したうえで新たなスタートを切った。一方、従来の金剛組は負債を受け継ぎ、同年7月に自己破産し、一連の手続きが終了した。

金剛組が再スタートできたのは、松建設以外からのサポートも大きかった。金融機関は担保のない部分の債権を放棄した。中立的な立場を重視する銀行が、特定の企業を優遇するような決定をしたのは異例なことだ。
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2022/04/21(木) 06:53:00.97ID:CAP_USER
また、協力業者への支払いは手形で行っていたが、債権者集会で2割ディスカウントでの手形買い取りを提案したところ、大きな混乱もなく了解を得ることができた。通常の債権者集会ならば、罵声が飛び交ってもおかしくないが、集会は穏やかに終了したという。

高い技術と優秀な宮大工を抱える伝統企業を潰してはならない。もし倒産となれば、技術も人材も散逸してしまう。松建設をはじめ多くの人や会社が、そうしたことは絶対に避けねばならないとの気持ちから金剛組を支援した。

利隆は「金剛組は、大阪という街が育んだ企業の義理と人情で救われた」と言う。

宮大工の技術交流で磨き抜かれた、圧倒的技術力
金剛組が存続し続けられた第一の理由は、四天王寺の存在と、高度な技術を代々継承し続けてきたことだ。四天王寺の五重塔は、戦災や落雷、台風などで焼失したり倒壊したりしたことはあるが、地震による倒壊は一度もない。地震大国日本でのこの実績が、金剛組の技術力の高さを雄弁に物語る。

金剛組では昔から、正大工職を頂点に複数の宮大工の組が配置されていた。各組にリーダーとなる棟梁がいて、宮大工は金剛組に属するのではなく、その下の組に所属する。金剛組と組の関係は茶道や華道の家元と師匠、または相撲協会と相撲部屋のような関係だ。支配する、されるという関係ではなく、運命共同体なのだ。

金剛組が四天王寺から仕事を受注して各組に割り振る。組における宮大工の採用などは各棟梁に任せられ、金剛組は直接口出しをしない。組は金剛組の専属で、金剛組から依頼された仕事を行った。

技術漏洩を防ぐために、江戸時代まで組は金剛組以外の仕事を勝手に請け負うことを禁じられていた。そのおかげで各組は新規顧客開拓などの営業活動をせず、ひたすら技術習得と継承に努めることができた。

各組はライバル同士で切磋琢磨する関係であり、競争して潰し合う関係ではない。普段は各組が単独で工事を請け負うが、大きな工事になれば共同で請け負う。こうしたときに組同士の技術交流が行われて、金剛組全体の技術レベルが向上する。

現在は金剛組のもとに宮大工の組が8つあり、「匠会」という組織を結成している。宮大工は総勢約100人。

金剛組と各組の間に資本関係はない。建設業法上では元請けと下請けの関係になるが、多田俊彦社長は「そんな薄っぺらな関係ではない」という。宮大工の中には、父も祖父も金剛組で仕事をしていたという人もいて、金剛組との絆は太く強い。他のゼネコンと下請工事会社の関係とは違う。いざ仕事をするときは金剛組ファミリー一体で請け負うという感覚のようだ。

金剛組は大阪で2000坪、東京で1000坪におよぶ大きな材木加工センターを所有し、各組へ作業場として無料で提供している。また、建設部材の図面を実際の寸法で書くことがあるが、そのためには広大な作業場が必要だ。金剛組では、現寸場と呼ばれる図面作成の場所を用意して、これも無料で各組へ提供している。

加工センターや現寸場では組ごとに作業場所が分けられているが、お互いに仕事ぶりが丸見えなので、自然と技術交流がなされる。

自社専属の宮大工を抱え、自社所有の加工センターと現寸場を所有する建設会社は、金剛組だけだ。技術重視の姿勢は何年たっても変わらない。

https://toyokeizai.net/articles/-/541869
0006Ψ
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2022/04/21(木) 07:12:41.38ID:sS5j5JGV
世界で一番古い企業は
営利企業である教会
0007Ψ
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2022/04/21(木) 07:14:35.57ID:RbLzEDbF
いや一回潰れたべさ
0008Ψ
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2022/04/21(木) 07:31:14.15ID:5mq3WoF1
読んでないけどスゲー
0009Ψ
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2022/04/21(木) 07:35:54.28ID:O8j302yY
倒産してるけどね
0010Ψ
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2022/04/21(木) 07:37:32.90ID:takKrOAq
宮大工の世界詳しくないからよく知らんけど
金剛組って昔潰れたんじゃないの?
他の組なのかな?
0011Ψ
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2022/04/21(木) 07:39:17.64ID:takKrOAq
>>9
やっぱそうだよね
0012Ψ
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2022/04/21(木) 08:07:08.89ID:GQr0VNW6
>当時の日本には本格的な寺院を建築できる技術者がいなかったため
>仏教の先進国であった百済から技術者を呼び寄せた。

ネトウヨ憤死
0013Ψ
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2022/04/21(木) 08:10:32.46ID:6ov2wsC7
聖徳太子=キリスト説
0014Ψ
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2022/04/21(木) 08:10:33.08ID:HQvTxtFA
>>10
組織として継続してるから問題ないんでしょ。
戦争負けても日本は日本みたいな。
細かく言えば江戸時代以前は会社じゃないし、
創業1444年で当主が41代目では1代当たり35年で、
平均寿命55歳と考えると20歳で当主就任となりプロ集団というには無理が出てしまう。
0016Ψ
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2022/04/21(木) 08:27:10.06ID:QCqn9z6b
古代大韓は東海を超え 倭猿を駆逐し小倭列島を平定 文明を授け 日王家を創設しました
0017Ψ
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2022/04/21(木) 11:07:16.78ID:IP7nLJaQ
まあ、企業っていうか同業者組合みたいなものだろ
結構、世界にもありそうな気がするな
歴史のある建物なんて多いし
0018Ψ
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2022/04/21(木) 11:55:58.02ID:8fD/ftJ6
日本オリジナルの権力者の墳墓、前方後円墳が半島で見つかってることは
日本人がその地を支配いたという事なんだろう
百済からの渡来人としても、それは日本人だといえる
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