江戸時代から続く「チンドン屋」
皆さんは「チンドン屋」はご存じでしょうか? 知っている人にとっては「昭和の遺物」というイメージで、知らない人は「?」となってしまうのではないでしょうか。

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チンドン屋(Wikipediaより)

しかしこのチンドン屋、きちんとした由緒がある文化で、しかも現在また脚光を浴びているのです。

チンドン屋の始まりは1845年、江戸時代後期に遡ります。

この頃、大阪・千日前の法善寺で飴を売っていた飴勝(あめかつ)という行商人が、竹製の鳴り物と売り声で人気となり、特にその売り声を買われて、ある寄席小屋の宣伝を行いました。

これがチンドン屋の起源と言われています。

それから約40年後、明治時代になり、大阪の勇亀(いさみかめ)が飴勝の商売を引き継ぎました。

勇亀は芝居の口上のはじまりに言う「東西東西」を真似た宣伝方法を採用し、街を練り歩いたことから「東西屋(とうざいや)」と呼ばれるようになります。

1885年になると、東西屋の秋田柳吉という人物が、東京で初めて宣伝を行いました。

彼は「広目屋(ひろめや)」と名乗り、東西屋式の宣伝方法である拍子と口上に、さらに楽隊を加えたそうです。すると、真似をする業者も一気に増えました。

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広目家の広告 鈴木春風(1851 – 1913)の写本『世渡風俗図会』より(Wikipediaより)

楽隊が加わったことで、その後のチンドン屋のスタイルにさらに近づいていきます。

明治時代~昭和初期のチンドン屋
明治中期には広目屋の宣伝方法が大阪に伝わり、東西屋も楽隊を取り入れるようになりました。

サンドイッチマンと呼ばれる、大きな広告を体の前後に背負って街を歩く宣伝方法も、この頃に本格的に登場しています。このような状況の中、東西屋と広目屋は全盛期を迎えました。

しかし1907年頃になると活動写真がブームになり、宣伝広告は写真を使った新聞が主流になります。路上広告は一気に下火になってしまいました。

都市部での仕事を失った東西屋と広目屋は地方に行き、鉦と太鼓を鳴らしながら4~5人の編成で町を回る行商を行うようになります。

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1935年頃、現山梨県都留市の商店開店祝いでのチンドン屋(Wikipediaより)