団塊の世代が75歳以上となる「2025年問題」が目前に迫っている。このままでは社会保障を巡る世代間対立を招きかねないなか、団塊の世代は今なお「社会の主役」という意識が根強いという。

団塊の世代が75歳以上となり、医療介護や国・市町村財政の逼迫が予測される、いわゆる「2025年問題」。

急速な高齢化による人口構造の変化は、社会保障費の増大を招き、現役世代の暮らしに多大な影響を与えるとされる。数々の将来不安を抱える現役世代にとって、「2025年問題」は団塊の世代との利害対立を招きかねない問題でもあるのだ。

そのためか、団塊の世代に不満を持つ現役世代は少なくない。SNS上には反感の声が数多く書き込まれている。しかしそのときに焦点が当たるのは、社会保障の世代間格差だけではない。

「独善的で、抑圧的で、自己中心的」――団塊の世代を、そう評する人は多い。なぜ、現役世代との大きなギャップが生まれるのか。それは長期不況が日常の風景だった現役世代の思い込みなのか。団塊の世代の自意識とはどのようなものだろうか。

団塊の世代が現役世代から疎まれる背景
「団塊の世代は『俺たちが社会の主役』という自意識を持った世代です。日本の歴史上、そうした特徴を持つ世代は極めて珍しい。それとともに彼らの持つ「封建性」(後述)が、現役時に企業のなかで後輩や部下への強い圧力になりました」(阪本さん。以下略)

そう話すのは、大人向けマーケティングの研究開発を行う「人生100年時代 未来ビジョン研究所」の代表・阪本節郎(さかもとせつお)氏だ。長年に渡り、大人マーケティングを研究してきた阪本氏は、戦後社会で一貫して「注目され続けてきたこと」が、団塊の世代のメンタリティを形成したと分析する。

団塊の世代とは、1947年から1949年までの3年間に生まれた男女を指す(広義には1947年~1951の5年間)。

当時の年間出生数は260万人以上。2021年の約81万人と比較すると、現在の3倍以上の子供が生まれている。1945年の太平洋戦争の敗戦により、出征していた多くの若い兵士が続々と復員して結婚したことがきっかけとなり、空前のベビーブームが巻き起こった。

この戦後の一時期における急激な人口増加に着目した作家の堺屋太一が、1976年に出版した同名、「団塊の世代」という小説が、この呼称の由来となった。

執筆当時、通商産業省(現・経済産業省)の官僚として人口問題に関心を持っていた堺屋は、終戦後に文字通り「塊」のように生まれてきた世代が、戦後社会の構造に大きな影響を及ぼしていると小説の形で指摘した。

「端的に言って、団塊の世代とは『数の力』でした。団塊の世代は人口が多かったから社会を変えることができたし、その変化を目の当たりにしているから『俺たちが社会を動かしている』という意識を自然と持つようになりました」

敗戦に沈む日本社会の希望として生を受けた団塊の世代。焼け野原に芽吹いたつぼみのような存在だった彼らは、どんどん数を増やし、戦後の灰色の風景を鮮やかな色で埋め尽くしていくことになる。

1960年代、日本は「若者文化の国」になった
団塊の世代の影響力が顕著になり始めるのは、彼らが10代後半を迎える1960年代後半。音楽やファッションなどのポップカルチャーが台頭した頃だ。

「団塊の世代は日本を『若者文化の国』に変えてしまいました。1960年代半ばから後半にかけて、音楽シーンは歌謡曲や演歌からロックやポップスに移り変わっていきます。たった数年間で音楽の主流が、橋幸夫や舟木一夫からザ・スパイダース、フォーククルセダーズ、さらにビートルズやローリング・ストーンズに変わってしまったのです。この変化は急激でした。

また、ファッションでは男性の長髪やジーンズが登場し、女性の間ではミニスカートが流行します。現在に繋がる若者文化が団塊の世代を機に一気に広がっていったわけです」

たしかに、団塊の世代は芸能や文化のパイオニアを数多く輩出している。

お笑いでは北野武(1947年)や高田純次(1947年)、音楽では矢沢永吉(1949年)や井上陽水(1948年)、細野晴臣(1947年)、作家では村上春樹(1949年)、北方謙三(1947年)、沢木耕太郎(1947年)。