古代にさかのぼって歴史を俯瞰すれば、立場や文化の違いが鮮明に浮き上がってくる――。

歴史作家の関裕二氏は、ヤマト建国は中国の皇帝のような"強い王"を望まない人々を中心に推し進められたと力説する。この性質は、今なお各国の違いにつながっている可能性が高いという。

大陸や朝鮮半島の文明が次々に流れ込んできた縄文から弥生時代、日本ではどのような動きがあったのだろうか。

※本稿は、関裕二著『日本、中国、朝鮮 古代史の謎を解く』(PHP新書)から一部抜粋・編集したものです

ヤマト建国のヒントは「祭器」にあり
ヤマト建国は不思議なできごとで、富も権力も持たぬヤマトと周辺の人びとが、「文明に抗う」ために、奈良盆地の東南の隅に集結したと考えられるようになった。

「貧者の書生論的なはかない夢」だったはずなのに、一瞬で本当にヤマト建国を成し遂げてしまった事件なのである。これは、想像で述べているのではない。考古学者が物証をかき集めて構築した新説なのだ。

安っぽい空論でも机上論でもないし、飛躍した妄想でもない。考古学の成果を積み重ねた結果「そう考えなければ逆に不自然」だから生まれた仮説である。

弥生時代後期の日本列島でもっとも栄えていたのは北部九州だった。朝鮮半島に近く、壱岐、対馬という渡海するための止まり木があって、朝鮮半島南部の鉄の産地との間を自在に行き来していたのだ。

朝鮮半島最南端の交易の拠点になった金海地域には、今のような平野がなかった(海岸線は奥まっていた)。一帯は鉄の交易によって栄えていたが、大平野を持つ北部九州から穀物が輸入されていた可能性が指摘されている(田中史生『国際交易の古代列島』角川選書)。運搬したのは、対馬の海人だと言う。

「魏志倭人伝」には、対馬には良田がなく、南北に市糴(してき)して(交易で)生きていると記される。朝鮮半島南部の鉄を北部九州にもたらし、穀物と交換していた様子が見てとれる。

また、金海の遺跡から見つかった船舶部材は、3世紀から4世紀の日本産とわかって、他の伽耶地域からも、6世紀初頭の日本産と思われる樟(くすのき)製の船の部材が見つかっている。

穀物や材木が、鉄と交換されていた可能性は高く、また「倭韓交易には両地の経済的なつながりや相互依存状況がよく示されている」(前掲書)という。

鉄器の保有量は北部九州が断トツで、さらに、山陰地方、北陸地方(要するに日本海沿岸部)と、吉備(岡山県と広島県東部)にもたらされていた。

問題は、近畿地方南部(ヤマト周辺)と東側の地域が鉄の過疎地帯だったことだ。ちょうど、銅鐸(どうたく)文化圏に重なる。そして、銅鐸こそ、強い王を拒む祭器だったのである。

カギを握る「銅鐸文化圏」の人びと
弥生時代の最後に銅鐸を祭器に用いた地域は、銅鐸を巨大化させていた。

理由は、威信財をひとりの強い首長(王)に独占させないためで(強い王を望まなかった)、集落のみなで、銅鐸を祭器に用い、勝手に首長が墓に副葬できないようにしたのだ。

北部九州のような、銅剣や鉄剣、鏡を副葬して首長の権威を誇っていた地域とは、異なる発想で、しかも「強い王を求めない地域の人びと」が、3世紀の初頭に、奈良盆地の南東の隅に拠点を作り、それがヤマト建国のきっかけとなっていく。

これが、纏向遺跡(奈良県桜井市から天理市の南端)の誕生である。

忽然と、三輪山山麓の扇状地に、政治と宗教に特化された都市が誕生したのだ。纏向遺跡には外来系の土器が多いことで知られている。

内訳は伊勢・東海49パーセント、山陰・北陸17パーセント、河内10パーセント、吉備7パーセント、関東5パーセント、近江5パーセント、西部瀬戸内3パーセント、播磨3パーセント、紀伊1パーセントで、銅鐸文化圏の2つ、東海と近江を合わせると過半数に達する。